STAYDAYS 01


 緑豊かなフロニャルド。その中でも森と平野と湖に恵まれた国があった。

 ビスコッティ共和国。最近は隣国であるガレット獅子団領との“戦”においてややしょんぼり気味なものの心優しき領主――ミルフィオーレ・F・ビスコッティの下、健やかに暮らす人々の姿がその国にはあった。
 戦に負けてもミルヒ姫の笑顔と歌があれば何時でも元気になれる。そんな気風がこの国の特徴だ。
 だが、今恐るべき事に、そんな臣民たちの最後の砦たるミルヒの笑顔にも今や苦悩に満ちた色が生まれていた。

「ど、どうしたでありますか姫様?」

 ここはフィリアンヌ城内の図書館。堆く詰まれた本棚と、そこに詰まった大量の書物の間を忙しなく動く小さな影が一つあった。
 リコッタ・エルマール。通称リコ。齢十三にして国立研究学院において主席研究士の位を持ち、歴史学や紋章学と言った様々な分野において卓越した知識を持つ天才少女である。

 そんな彼女が心配そうな表情で見詰める先、そこにこの国の領主、ミルフィオーレ・F・ビスコッティの姿があった。
 彼女は図書館の隅、読書用の小さな机に腰掛けたまま顎を机の上に乗せた体勢で「う、うーん……うーん……」と頭を抱えて唸っていた。

 そこに浮かんでいるのは先ほども述べたとおり苦渋に満ちた懊悩の表情。ミルヒの忠実なる臣下であり、そして掛け替えの無い友人でもあるリコが案じるのも当然の様子だ。
 ミルヒは自分の前に頼れる臣下が居る事を知ると「ううう」と今にも泣き出しそうな表情のまま、縋るように言葉を紡ぐ。

「リ、リコ……わたし、いったいどうしたらいいんでしょう……?」

 迷子になった子供のように不安に満ちた眼差しで告げるミルヒ。どんな苦境に陥ったとしても臣下の前ではけして弱音を吐くことなく、笑顔を振りまく彼女にしてはあまりにも珍しい光景だ。

「それは……勇者様の事でありますか?」

 こんな風にミルヒが苦悩する心当たりは今のところ一つしか思い当たらない。
 それは、つい先日このビスコッティ共和国を救うため召喚儀式によって現れた勇者――シンク・イズミの事だ。

 こちらの問いにミルヒは今にも泣き出しそうな表情のまま、無言で一度首を縦に振る。
 そうして告げられるのは懺悔の言葉だ。

「私が……私が召喚してしまった所為で勇者様はご自分の世界に帰れなくなってしまいました。私がよく調べもせずに、勇者召喚の儀式なんてしてしまったから……」

 じわり、と目尻に大粒の涙を浮かべるミルヒ。慌ててフォローするのはリコだ。

「ひ、姫様は悪くないでありますよ! 姫様は勇者召喚の儀式で勇者様が元の世界に帰れなくなるとは知らなかったわけですし、悪いとすればそれを知りながら儀式を行う前に進言しなかった私の方が……」

 言葉にすると、自分の中にも大きな罪悪感が生まれてきたのだろう。言葉尻に向かうに連れ声のトーンが落ち、俯き気味になるリコ。どんよりと暗く沈んだ空気が場に沈殿する中、多少は持ち直したミルヒの声が響く。

「いえ、リコ達に非はありません。禁断の儀式と呼ばれる理由を深く考えもせず、勇者召喚を行った私が悪いのです……もしこの命で罪が償えるのならそれでもよかった。けど、そんなことをしても勇者様が元の世界に戻れるわけではありません。勇者様にだってあちらの世界に掛け替えの無いご家族やご友人が居たはずなのに……それなのに、私が、無理矢理……う、うっ、うわーん!」

 己の身に置き換えて想像してしまい感情を抑えきれなくなったのか、わんわんと泣き出すミルヒ。

「だ、大丈夫です姫様! このリコッタ・エルマール、国立研究学院主席の名にかけて勇者様をご帰還させる方法をきっと見つけ出して見せます! だ、だから泣かないでくださいであります……」

 そう、今リコが調べているものがその「勇者帰還の方法」だ。この世界において王族にのみ許されている勇者召喚の儀式だがそれが実際に行われたのは一度や二度ではない。
 確かに勇者召喚はミルヒ達にとっても伝承や伝説の類の魔法ではあるが、長いフロニャルドの歴史上、勇者召喚は幾度か行われている――筈だ。
 でなければ、勇者召喚という技法が今日まで語り継がれるわけが無い。

 ならば、その過去の勇者召喚――という前例にもしかしたら勇者を元の世界に帰還させるなんらかの手がかりがあるかもしれない。
 語り継がれている伝承では召喚した勇者は元の世界に戻れない、とある以上儚い望みではあるかもしれない。
 それでも、ほんの僅かな希望だとしてもリコ達は勇者を元の世界に戻す為に、日夜研究に励んでいるのだった。

「ありがとうリコ……そうですよね。貴方達が頑張ってくれているんだもの、私が弱音を吐いててはダメですよね」
「そうですよ! それに勇者様はとてもお優しいお方であります。未だにご帰還の目処が立たないのに、それでもこの国や姫様の為に“戦”で頑張ってくれていますし!」
「ええ、本当に……本来ならば私は責められたって仕方ないのに……」

 勇者――シンクは本当に優しい心の持ち主だ。帰還ができぬと知った後も、けして怒りを露にすることなく笑ってくれている。けれど、家族と引き離されて悲しくないわけが無い。辛くないわけがないのだ。

「ねぇリコ。私……勇者様の力になりたい」

 何かを決心したように、力強く言葉を紡ぐミルヒ。

「私はリコみたいに頭がいいわけじゃないから、リコのお手伝いをしたところで役に立てるかわからない。でも、だったら私は別の事でほんの少しでも勇者様の心を癒してさしあげたいの。嫌われてもいい。ううん、もしかしたら本当はもう嫌われてるのかもしれないけど……でも……」
「姫様……」

 ミルヒの決心にリコもまた感極まった様子を見せる。

「わかったであります。この不肖リコッタ・エルマール。姫様の為に微力ながらお力になりますです!」
「ありがとうリコ。でも、貴方は勇者様の帰還方法を調べるっていう重要な使命が……」
「はい、もちろんそちらも疎かにしませんが、過去の勇者様の情報を調べるうちに色々とあちらの世界の情報を知る事が出来たであります」

 そう言って、リコは書きかけの書類を机の上に広げる。

「まず気をつけなければならないのが、勇者様は私達にとって異世界人。礼儀作法において我々の常識とは掛け離れた事柄があるやもしれません」
「――!? そ、そうですね! 確かに勇者様に知らない内に失礼を行っていては元も子もありません」

 元の世界に戻せない、と知らないまま勇者召喚を行ってしまったミルヒにとってそれは最も注意すべき事柄である。
 リコはミルヒの言葉にひとつ頷きを挟み、広げた書類を指し示す、

「ここには勇者様の元の世界に関する情報がたくさん載っているのであります。これを使えばどうすれば勇者様が喜んでいただけるのか知る事が出来るであります!」
「なるほど……わかりました。このミルフィオーレ・F・ビスコッティ。ビスコッティ共和国領主の名にかけてきっと勇者様に喜んでいただきます!!」

 ぐっと拳を握り締め、気合を入れるミルヒ。
 その瞳にもう涙はない。彼女は一人の領主として己にできる事をやろうと決めたのだ。

 ●

「よんひゃくきゅうじゅうはーち……よんひゃくきゅうじゅうきゅーう……」

 筋肉の軋む音と共に、熱気が溢れていた。
 広い部屋の中央、うつ伏せの姿勢で身を伏せるのはまだ歳若い少年だ。その身を支えるのは両足指と右手――そこから伸びる五指だ。
 片手指立て伏せの要領で、数字を数えながら身を上下する少年。上半身裸の身には玉のような汗が幾つも浮いているがその動きには淀みが無い。

「ごひゃーくー」

 その動きも最後に告げられた数字と共にようやく終わりを迎えた。床ぎりぎりのところまで身を伏せたまま完全に停止する。だが、その身を支えるのはやはり五本の指と両足指のみ。
 だが次の瞬間、その均衡が崩れた。

 右腕の筋肉が大きく張り詰めると同時、身体を支えていた両の足指がゆっくりと床から離れる。
 身体を支えるのは右手指のみ。けれど両足はゆっくりと確実に天井方向へと伸び、最終的に片手指で逆立ちをする姿勢になる。

 ピンと足先を伸ばした姿勢のまま五秒。どん、という音が板張りの床に響き、少年の身体が跳ねた。今度こそ、完全に床との接点がなくなる。
 中に浮いた少年はそのまま身を縮め回転。見事な宙返りを決めると、そのまま床上へと音もなく着地した。
 ふぅー、とバランスを崩さぬまま深く静かに深呼吸を一つ。そこでようやく全身の緊張を解いた少年は、凝り固まった全身をほぐすかのように伸びをして一言。

「今日のノルマ終了ーっと」

 どうやらこれが彼の日課らしい。もちろん片手指立て伏せはその内のワンセットでしかなく、これ以外にも様々なトレーニングを彼は日課として過ごしているのだろう。
 彼の名前はシンク・イズミ。日本のインターナショナルスクールに通うごく普通の――というには些か語弊はあるが――中学一年生。

 そしてこの異世界フロニャルドに召喚された勇者でもある。

 一通りのクールダウンを終えた彼は、汗の浮いた身体をタオルで拭くとそのまま備え付けのベッドへと身を横たえる。
 そうして何気なく覗き見た窓の向こう。そこからは幾つかの浮島――その名の通り、空中に浮かんでいる巨大な浮遊島――が見える。

 それは現実の世界では到底お目にかかることの出来ない景色。
 なぜならそう、ここはシンクにとって現実の世界――地球ではなく紛うことなき異世界フロニャルドなのだ。
 既に解りきっていた事実ではあるが、筋トレという日常的な行動を終えた直後にありありとその事実を見せつけられると嫌でも意識してしまう感情がそこにはある。

「異世界……かぁ……」

 困ったように呟くシンク。事実彼には幾つか困った事が起きている。
 一つはここ、異世界フロニャルドに自分が勇者として呼ばれた事。終業式の帰り、大胆にショートカットして帰宅しようとした自分は突然現れた光の輪――召喚陣と言うらしい――に飲み込まれ否応なくこの異世界フロニャルドに呼び出された。

 まぁ、それに関してはいい。突然だったのでもちろん驚いたが、この世界で行われている“戦”はシンクの心を揺さ振る興味深いものだったし、現実世界では到底体験できないであろう“戦”を心行くまで楽しむ事ができた。
 参加する事を決めたのも自分自身だし、それはいい。

 けれどもう一つの問題――この異世界フロニャルドから元の現実世界に戻れない、という事はシンクにとってあまりにも予想外の事態であり、そして今現在も解決していない大きな問題である。

「やっぱり父さんや母さん……それにベッキーも僕が帰らないとさすがに心配するかなぁ?」

 正直な所、事態は心配云々を通り越してもっと大事になりそうな気もするが、さすがにそこまでは頭が回らない。そういう現実的な事を考えるにはこの異世界という舞台はあまりにも突拍子が無さ過ぎるのだ。

「まぁ、姫様も僕を帰せないとは思ってなかったみたいだし、仕方ないんだろうけど……」

 正直な所、その事実を始めて聞いた時は「いやいやちょっとちょっと冗談じゃないですよ」と思わなかったわけでもないが、必死に謝るミルヒの姿を見てしまってはそんな気持ちも霧散した。
 彼女を責め立てたところで事態が解決するわけではない。例えそうでなくてもぽろぽろと涙を流しながら、謝罪の言葉を口にする少女を責める事などシンクにはできなかった。
 イギリス人である祖父には再会するたびに教えられてきた。紳士たれ、と。まぁ何故かそういう本人はべらんめぇ口調の自称江戸っ子だったのだがいったいあれはどういう冗談なのか――閑話休題。

 それでも自分はまだ救いのある方なのだろう。ミルヒの好意により衣食住に困る事はないし、今も自分の帰還させる為に必死にその方法を調べてくれている。
 例えばあの日、自分が乗ろうとしていた飛行機がどこかの海に墜落して無人島に流れ着いていた――とでも思えば今の境遇は幸運以外の何物でもない。

 もちろん、かなり強引なポジティブシンキングだとは自覚しているが――くよくよしてたってしょうがないじゃないか、というのがシンクの出した結論だった。
 そんな諸々の理由もあり、シンクは暫らくの間、この国で勇者として“戦”に望む事にした。ミルヒはこうなった以上、勇者として戦う必要なんて無いと言ってくれたが、ただ漠然と日々を過ごすよりも身体を動かしていた方が気が紛れる。

 それにあの“戦”を心から楽しんでいた事は紛れも無い事実なのだ。

「ま、きっとなるようになるさ」

 そんな風に、シンクはある程度の気持ちの整理をつけ、この世界での生活を受け入れようとしていた。
 そんな時だ。部屋の扉がやや控えめに叩かれたのは。

「ん? はーい、どなたですかー?」

 ノックの音に、慌てて身を起しかけていたシャツを羽織る。
 そのまま扉へと向かうがその間に返事は無い。やはり控えめなノックの音が「トントン」と返ってくるだけだ。

 そんな反応を不思議に思い、首を傾げながらも扉を開けるシンク。
 果たして、そこに立っていたのは――、

「姫様…………?」

 このビスコッティ共和国の領主、ミルフィオーレ・F・ビスコッティその人だった。
 彼女は玄関口で両手を後ろ手に回したまま、どこか緊張した面持ちで立っていた。
 その身が扉が開いた事で、僅かに震えたのがシンクの目に映る。

 初めて出逢ったあの日以降、彼女は自分と会うたびにこうしてどこか申し訳なさそうに目を伏せる。
 だがそれは仕方無い事なのかもしれない。何故ならミルヒこそがこの世界にシンクを無理矢理連れて来た張本人なのだ。
 もちろん、シンクがミルヒの事をそんな風に攻め立てる事は無い。けれど、それが事実である以上、彼女の自責の念が晴れる事は無いのだ。

「あ、あれ? 姫様……ど、どうされました?」

 そんなミルヒの思いを察し、できる限り笑みを浮かべて何事もなかったかのように振舞うシンク。だが、どうしたってぎこちなさは否めない。アクロバットは得意でも演技は苦手なのだ。
 ハハハ、と何処か無理した乾いた笑みを浮かべながら「シェイクスピアでも見ておけばよかったかな」と些か後悔するシンク。

 だが、今日のミルヒは違った。
 彼女はその大きな瞳をまっすぐこちらに向けると、

「あ、あの。勇者様っ、実は今日はその、お願いがありまひてっ!」
「えっ、はい……な、なんでしょう」

 突然の勢いに負けて、ミルヒが噛んだのもそのままに頷くシンク。
 勢いよくその目の前に、突き出されるのは彼女が後ろ手に組んでいた両手。
 ジャラリと響く金属音を響かせながら差し出されたのは、

「あっ、あっ、あのっ。わ、私を貴方のペットにしてくだひゃい……」

 長い鎖の付いた大きな――偶然にもミルヒ姫の首にちょうど合わせたかのような――首輪だった。






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