STAYDAYS 03
ミルフィオーレ・F・ビスコッティ。
彼女はここ、ビスコッティ共和国の領主にしてフィリアンノ城の城主にして、その類稀なる歌の才能から国内に留まらずこのフロニャルド全土において稀代の歌姫と呼ばれる傑物だ。
だが、そんな彼女に近頃新たな立場が加わった。
公のものではなく、それは極々私的なもの――だが、それは彼女にとってなによりも優先すべき立場であった。
「あ、あの勇者様。いらっしゃいますか……?」
フィリアンノ城の長い廊下。とある一室の前で控えめに扉をノックするミルヒの姿がそこにはあった。
何故か一目を忍ぶように左右に注意を振り払いつつ、扉の向こう。部屋の主に小さく声を掛けるミルヒ。
だが、返事はない。時計を見れば彼と待ち合わせた時刻の二十分ほど前。
予定よりもかなり早い時間帯に来てしまったのは弾む心をつい抑えきれなかった結果だ。
悪いのは自分なのだが、それでも彼が居ない事にミルヒは一抹の寂しさを覚える。
「せっかく勇者様に喜んでもらえると思っていっぱい勉強してきたのに……」
それでも諦めきれずに、ドアノブを掴み僅かに動かす。けれど本来ならばあるはずの施錠の手応えがない。
返って来たのはガチャリ、という確かなノブの回る音。
あれ? と首を傾げながらもドアノブを引けば、修繕したばかりの扉はひどくあっさりと開いた。
「鍵が開いてる……? あ、あの勇者さまー。本当にいらっしゃらないんですかー?」
開いた扉の隙間から中を覗き、声を掛けてみる。けれどやはり返事はない。
その様子に暫らくの間ドアノブを握ったまま逡巡するミルヒ。
だが、その時だった。かるくカーブを描く廊下の向こう、そちらから複数の足音と声が聞こえてきたのだ。
「まったく、あの勇者ときたら……なぜ姫様はあんなアホを城内に住まわせているんだ、他の兵と同じ兵員宿舎で充分ではないか!」
「まぁまぁエクレ。勇者様は異世界からいらっしゃったお客人なのでありますから、ちゃんとおもてなしをしないとダメでありますよー」
聞こえてくるのは聞き覚えのある二人組の声。普段ならば彼女達と廊下でばったり出くわした所でなんの問題もないのだが今は状況が状況だった。
なにしろ、この関係については今のところ自分と勇者、二人だけの秘密なのだ。
そう約束した以上、例え親友とはいえあの二人にもこの秘密を打ち明けるわけには行かない。
そしてミルヒは誰よりも嘘をつくのが下手だった。
出会い頭にあの二人に「こんなところで何をしているのか?」と問われればうまく誤魔化す自信がミルヒにはない。
一瞬の躊躇。しかし結果的にミルヒがとった行動は「勇者様、ごめんなさいっ」と小さく呟きながら扉の向こう。勇者の部屋へと身を隠す事だった。
慌てて扉の向こうに身を滑り込ませ、静かに扉を閉める。そうして息を潜めていると聞こえてくるのはエクレールとリコッタの声だ。
「む……おかしいな? 今このあたりに姫様がいらっしゃったと思うのだが……?」
「姫様ですか? 私は見てないでありますが……?」
「見間違いではないと思うが……ぬ、ここは……勇者の部屋……?」
心底嫌そうな感情を露にしたエクレールの声が、扉越しでもありありと聞き取れた。
「まさか、あのエロ勇者……姫様を自分の部屋に連れ込んでたりしないだろうな……」
「エクレッ! エクレッ!? 紋章が浮かんでいるでありますよ!? それに勇者様ならさっきすれ違ったであります!」
「む……そういえばそうだったな……しかし随分急いでいたようだが一体何を……」
言いながら、徐々に声は小さくなっていく。そのまま勇者の部屋から遠ざかっていったのを確認すると、ミルヒは安堵の溜息を漏らした。
「ふぅ、びっくりした……でもそっか、やっぱり勇者様どこかに出掛けられてるんだ……」
エクレール達の会話を聞く限り、やはり勇者は不在の様子。だが、このまま廊下に出て待ち惚けていれば、再度誰かとすれ違う事態になりかねない。
外で待つのは危険だ。かといってどこかで時間を潰す当てもない。となれば、
「勇者様なら……ちゃんと謝ったら許してくれますよね」
自分にそう言い聞かせ、部屋の中で待つことにしたミルヒ。彼女はそのまま扉から離れ、室内へと歩を進める。
視界に広がるのは以前もやってきたことのある部屋だ。基本的にはフィリアンノ城にいくつも存在する基本的な客室の一つ。勇者の私物と言えば召喚時に抱えていた通学用バッグひとつくらいだ。
だからこそ、幼い頃からここフィリアンノ城で過ごしてきたミルヒにとって、この部屋のの様子も見慣れた光景の一つでしかない。
その筈だ。けれど、
「勇者様のお部屋……この前はバタバタしててちゃんと見れなかったけど、そっか、ここが……」
言いながら、頭の上にある耳は周囲の様子を探るかのようにあっちこっちへとぴこぴこ動き続けている。浮かぶ表情は『興味津々』という言葉そのものだ。
そのままとりあえず備え付けのソファーに腰を降ろし、勇者の帰りを待つ。けれど、座ったところでミルヒはきょろきょろと左右に視線を配り続ける。
「ええと、やっぱりお茶とかの準備をしておいた方がいいのかしら……でも、あまり勇者様のお部屋を勝手に使うわけにはいけないし……」
どうにも落ち着かない様子のミルヒ。政の席においては威風堂々とした佇まいを忘れぬ彼女からは考えられないような挙動不審ぶりがそこにはあった。
やがて座っていられなくなった彼女は、椅子から立ち上がり、そのまま部屋の中をぐるりと徘徊しはじめる。
ソファーに窓、壁に掛かった額やアンティーク調の家具。どれもこれもビスコッティで用意されたものだが、ミルヒは何故かそれらを一つ一つを価値の在る芸術品か何かを愛でるように眺めていく。
「ここにあるものを……勇者様は毎日使われているんですよね……」
言って、なぜか頬に熱を感じた。ピンク色の尻尾もふわりと左右に揺れる。
ぐるり、と円を描くように室内を一周して辿り着いたのは一番奥、壁際に置かれた大きなベッドだ。窓辺から麗らかな午後の日差しが差し込む中、ミルヒはベッドの上――ではなく、その傍らの床に直接腰を落とす。
そうして、一度だけ出入り口のほうへと視線を向ける。だが、誰かがやってくる気配も扉が開く気配もない。
ミルヒはそれを確認すると、そのままベッドの上に頭を預けるようにして身を倒す。
沈み込むような柔らかな感触が、ベッドにつけた頬に伝わってくる。
そして感じるのはそれだけではない。もう一つ、確かに伝わってくるのは、
「……お日様と、…………勇者様の、匂い」
言って、幸せそうな笑みを浮かべるミルヒ。
そんな彼女に向けて、勇者シンクは気遣わしげに尋ねるのであった。
「あの……姫様? どうかされましたか?」
意識が、空白になる。
だが、本能に根付いた身体の反応は劇的だった。反射的に身を起し、視線を向けた先、そこにはベッドの傍らに設えられた窓枠に足を掛け、今まさに室内へと入ろうとしているシンクと目が遭う。
頭が真っ白になったまま数秒。言葉どころか身動きもとれぬまま硬直する此方の身を案じた様子で窓枠を乗り越えてきたシンクは救護の人間がするようにミルヒの眼前で手をひらひらと振り、
「ひ、姫様っ? えっと、ちょっとあの、大丈夫ですか!? 意識はありますか!?」
「え……あっ、ひゃい!?」
このままではマズい。と頭の中で告げられた言葉に従い反射的に声をあげるミルヒ。それが契機となったのか、白一色に染められていた彼女の意識も徐々に色を取り戻していく。
主に見た目が赤色に、だ。
「ちっ、違うんです! 違うんですっ! これはそのえっとあの色々と事情があって!?」
顔を真っ赤にさせながらしどろもどろな様子で弁解――と言うよりかは不思議な踊りを踊っているようにしか見えないミルヒ。嘘のつけない娘なのである。
だが、そんなミルヒの焦りとは裏腹に、シンクは吐息をひとつ。
「ああ、大丈夫みたいですね……返事が無かったから頭でも打ったのかと思いましたよ」
「へ……? え……?」
心の底から安堵した様子でほっと胸を撫で下ろすシンク。しかしミルヒはと言えば、わけもわからぬまま状況だけが進む様子に未だに狼狽し続けている。
そんな彼女を安心させるように、シンクはまぁまぁとジェスチャーを入れ、
「今日は絶好の昼寝日和ですもんね。この場所だと窓から吹いてくる風も心地いいし、ついうたた寝しちゃってもしょうがないですよ」
笑みを浮かべながら、共感を得たように頷くシンク。どうやら彼はミルヒがここでうたた寝していたとでも思っている様子だ。
「へ!? は、はい。そ、そうなんです! そのちょっと寝ちゃっただけなんです!」
――お父様、お母様。ごめんなさい。ミルヒは今嘘をついてしまいました。
渡りに船とばかりについ反射的に頷いてしまい、今は空の向こうにいる両親に謝罪するミルヒ。
「そうですかー。でも本当に大丈夫ですか? 顔、赤いですよ。熱でもあるんじゃあ?」
「いひゃう!?」
まだ頬が赤いままのミルヒを気遣うように、その額に手を伸ばすシンク。だが、ミルヒは反射的にその手を避けるように背後へと身を仰け反らせる。
そんなミルヒのリアクションに、中途半端に手を差し出した姿勢でシンクが固まった。
けれど、次の瞬間には申し訳なさそうに眉根を寄せた表情をつくり、
「あ……ごめんなさい。ちょっと不敬でしたよね」
「え? あ、ち、違うんです。今のはその少しだけびっくりしちゃっただけで。そんなイヤだったとかそんなのじゃなくてですね!」
慌てて弁解する、がシンクはこちらの弁に対して力の無い笑みを浮かべるだけだ。
二人の心の距離が離れていく感覚。恐れにも似た感情と共にそれを感じたミルヒはなんとか話題を変えようと思考を巡らせる。
しかし慌てた思考回路はくるくると空回るばかりで明確な答えを導きだす事ができない。
何か無いか、と左右を見渡す――が目に見えるものの中でそのまま新たな話題に直結するものはない。少なくとも今のミルヒではそこまで頭が回らない。
けれど、藁にも縋る思いの中、自分の懐より響いたガチャリという硬質な音が、ミルヒに天啓にも似た閃きをもたらす。
ミルヒは急いだ様子で隠し持ってきていた“ソレ”を取り出すと、そのままシンクに向かって捧げるように突き出す。
同時に放たれるのは一言。元々その為にこの場へとやってきていたミルヒにとって、そのセリフは流れるように紡がれた。
「あ、あのっ勇者様。私の事をちょ、ちょーきょーしてくださいっ!」
彼女の小さな掌に乗っていたのは、じゃらりと鎖の音を響かせる立派な首輪だった。
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