STAYDAYS 04


 一仕事終え、目の前に座る少女――ミルフィオーレ・F・ビスコッティを改めて視界に収めたシンク・イズミは僅かに気が遠くなるのを感じた。

 床にぺたりと座り込んだ姿勢の彼女は、瞼を閉じたまま首を傾け、その表情をまっすぐこちらに向けている。普段の表情豊かな愛らしい雰囲気とは違い、微動だにしないミルヒからは端整、という言葉すら霞むような美しささえ感じる。

 けれど、今その全容において強い違和感――というか背徳感を醸し出すパーツが一つ、強烈な自己主張を行っていた。

「あ、あのー姫様? 今更言うのもなんですが、ソレはやっぱりつけないといけないんですか?」

 伺うように尋ねるシンクの視線はミルヒの顔、よりやや下方。首元に向けられていた。
 そこにはたった今自分が巻き付けた鋲付きの立派な皮製の輪っか。そしてそれに繋がる鎖を繋げてできたリードだ。

 もはや出オチにしても見慣れすぎてしまったソレは、仔細な説明をするまでもなく首輪だった。
 それもミルフィオーレ姫専用の、だ。

「……え? あの、勇者様。その、似合っていませんか?」

 こちらの言葉に閉じていた瞼を開き、どこか不安そうに尋ねてくるミルヒ。
 似合っているか、いないかの二択であるならば正直に言えば似合っている。自分にはけしてまったくこれっぽっちもそんな趣味はないが、ぴこぴこと動く耳と尻尾に対し首輪という組み合わせは非常によく似合っている。

 だけど――いや、だからこそ。似合っているからこそマズいのだ。
 なにかこう色々と。そう、色々と、だ。

「似合っていないわけではないんですが、えっとその……ほら、姫様苦しくなったりしないかなーとか思いまして」
「ああ……心配してくださってるんですね。でも大丈夫ですっ。この首輪は城下町の職人さんに頼んでオーダイメイドで作って頂きましたから、私にぴったりで全然苦しくないんですよ!」

 ほらほら、と楽しそうにちゃらちゃらと伸びた鎖を鳴らしつつシンクに特注の首輪を見せ付けるミルヒ。確かに造りは異様にしっかりしているし、つけても怪我等しないようにとの配慮か首輪に付けられた鋲は押すとへこむ、柔らか素材で出来ている。

「あはは……ホント、よくできてますね……」

 だが、問題はそこではないような気がする。果たしてその職人さんはそれがいったいどういう用途で使われるものなのか解っているのだろうか。
 少なくともこの世界にも犬や猫といったフロニャルド人以外の所謂普通の動物がいる事は解っているし、レオン閣下のヴァノンや風月庵に住む動物達ように家族として過ごしている者がいることも知っている。

 けれど、彼等が首輪やリードで縛られている姿をシンクは今まで一度も見ていない。少なくとも、この世界においてペットを拘束するという行為はあまり一般的ではないのだろう。
 まして一国の姫君を拘束するなど、よくよく考えれば正気の沙汰ではない。

「あの、やっぱりそれは着けてないとダメなんですか……? ほら、そのータツマキとかも首輪とかしてないじゃないです……か?」

 ならべく穏便に、波風を立てないようにシンクは嬉しそうに尻尾を振っているミルヒを諭す。けれど可能ならば首輪を外して欲しいというこちらの言葉に何故か頬を赤らめながら視線を逸らし、

「で、ですけどこれは……そのっ、私が勇者様のペットであるという証ですから……」

 ――なにその反応!? なんなのその反応!?

 ミルヒの予想外の反応に、混乱の渦に突入するシンク。あえて説明するが今彼女が着けているのは給料三か月分の婚約指輪などではなく、首輪だ。それはそれは立派な首輪だ。

「ま、まぁそれに関しては気にしないでください! そ、それより勇者様。私もあれから、その色々と勉強してきたんです……」

 勉強? とシンクが鸚鵡返しに尋ねる中、ごそごそと背後を調べるミルヒ。何故だろう、凄くイヤな予感がする。確か前回、似たようなシチュエーションでこのお姫様はとんでもない代物を引っ張りだしてこなかっただろうか。具体的に言うとエロ本を。

「ひ、姫様っ! ちょ、ちょーっと待ってください!?」
「はい?」

 悪鬼羅刹の如く怒り狂うエクレールの姿を思い出し、慌ててミルヒを圧し留めようとする――が、時既に遅く彼女の腕の中には冊子が握られていた。
 けれど、そこに大きく描かれていたのは愛らしい柴犬の写真と、

「た、正しいペットのしつけ方?」

 そう、大きなフォントで描かれたタイトルの本だ。日本語で描かれたそれは装丁からして明らかにこちらの世界のものではない。恐らくはこれも勇者の遺物――過去の勇者が持ち込んだモノ――の一つなのだろう。

「あ、やはり勇者様の世界の言葉なのですね……リコに協力してもらって私もほんのちょっとだけ読めるようになったんですよー、えへん」

 ぱらぱらとページを捲りながら得意げな様子で語るミルヒ。

「それでですね。この書物によると、ペットをきちんとしつける事で、ご主人様との心の絆を深めていく事ができると書かれています。それも、なんと便利な図解付きで!」

 かなり初心者向けの内容なのか、ミルヒの開いたページにはイラストがふんだんに使われており、確かに多少文字がよめなかったとしても理解するのには困らない内容だ。
 ただ、気になるのは、

「ええと、あの……姫様。もしかしてなんですけど、まさかこれを……?」
「はい、実際にやってみましょう!」

 お日様のような笑顔を浮かべながら頷くミルヒ。やる気まんまんである。
 対しシンクはと言えば「ハハハ」と渇いた笑みを浮かべることしかできない状況であった。

 開かれたページには「お手」や「おすわり」と言った基本的なものからやや高度なものまで、芸の覚えさせ方などが描かれてある。
 なお、そこに写っているのは人間と普通の犬のツーショットであり、ミルヒのような女の子をしつける様子は微塵も写し出されていない。当然だ。

 ――こ、これをやるの!? 姫様と二人で!?

 ある意味、えっちな本を見せ付けられるよりも難易度の高い要求をさせられているような気がしなくもない。
 けれど、ミルヒの様子を見ても彼女はこちらに件のページを見せながらにこにこと笑みを浮かべている。ついでに尻尾も楽しそうに左右に揺れている。
 純粋にシンクとこうした触れあいを持つのを楽しみにしている様子だ。

 その姿に頭の中で激しく懊悩するシンク。一国の姫に対して失礼な事をするわけにはいけない、という考えとここで断ってしまうとミルヒがすごく悲しんでしまうという確信にもにた思いとが激しくぶつかり合う。
 そうして暫らくの間唸る様に悩みぬいた結果、シンクが選んだのが。

「わ、わかりました……やりましょう」

 苦渋の決断を思わせる様子で深く頷く。どう足掻いた所でミルヒを悲しませるような選択肢を選ぶ事などできやしないのだ。
 対してミルヒはと言うとパァッっと花開くような笑みを浮かべると尻尾をぺたぺた耳をぱたぱたと喜びを身体全体で表現する。そんな嬉しそうなミルヒを見れるだけでこちらの選択肢を選んだ甲斐があったと真剣に思うシンク。

 ――秘密の関係って事だし、万が一バレてもいくらかはフォローできるだろうしね。

 うんうんと酷く楽観的に考える。そう考えないとやっていけそうにないのだから仕方ない。

「それで、えっとどれから始めましょうか姫様?」
「え、えっと……で、では、これっ、これにします!」

 そう言ってミルヒが指し示したのは「お手」に関しての情報が記載されたページだ。
 言ってみれば手を載せるだけのその比較的ポピュラーかつ見た目的にもそこまで問題な誘うな選択に、シンクはホッと胸を撫で下ろす。

 ――これならまぁ、すぐに終わるだろうし手を合わせるだけだし。うん、おかしくないおかしくない。

 自分にそう言言い聞かせるシンク。

「それじゃあ始めましょうか。えっと、僕が飼い主役でいいんですよね」
「もちろんですよ、勇者様は私のご主人様なんですから!」

 一応確認の為にと尋ねると、まるで邪気の無い返事が返ってきた。その言葉に含まれるご主人様という単語か恥ずかしくもあり、悩ましくもある。
 もう、手早く済まそう。と改めて意を決したシンクは掌を見せるようにミルヒの前に出し。

「えっと……じゃあ姫様。その……お手です」
「はいっ!」

 元気よく返事をして、こちらの差し出した掌の上に自分の左手をちょこんと乗せるミルヒ。
 シルエットだけを見れば、それはまるで王に忠誠を誓う騎士の図に見えなくもないが、そもそも立場が真逆だし、何もかも間違っているような気がしないでもない。
 けれど、ミルヒはニコニコ笑顔のままシンクの掌に自信の手を乗せ――首を傾げた。

「えっと……あの、勇者様?」
「は、はい、どうかしましたか姫様?」
「いえ、あの、この後はどうすればいいんでしょうか?」

 たしたし、とシンクの掌を何度か優しく叩きながら尋ねるミルヒ。
 だが、この後と言われてもシンクには二の句が告げない。

「えっと……お手はこれでおしまいですよ?」

 基本的に差し出した掌にペットが手を乗せる、というただそれだけの芸だ。続きを所望されてもさすがにこれ以上は進展の仕様が無い。

 ――あ、それともやっぱりちゃんと出来たら頭を撫でたりした方がいいのかな?

 見ればミルヒは不満――というか不思議そうに首を傾げて思案している。

「あ、あれ……なぜでしょう。聞いていたのと何か違うような……?」
「あの、姫様……? どうかしましたか?」

 ぶつぶつと何事かを呟くミルヒ。この状況そのものがまずおかしいことにようやく気づいてくれたのか、と淡い期待を抱いてみるものの、彼女は「ちょっと待っててくださいね、勇者様」と断りを入れてこちらに背を向けた。
 そのまま「えーっと……ですからここがこうなって……」などと何かを試行錯誤するかのように自問を続ける。

「姫様ー? あのー、大丈夫ですかー?」
「わかりましたっ!」

 そう快活に叫ぶや否や、笑顔でこちらに振り返るミルヒ。彼女は難問を解いたかのような自信ありげな面持ちを見せる。

「勇者様勇者様! こうして手を挙げてみてください、こうです!」
「へ……? こう、ですか?」

 そう言ってミルヒはやや興奮気味に、小さく挙手するような形で右手をあげる。シンクもそのジェスチャーに習って掌をミルヒに見せるように顔の横あたりに掲げてみせる。

「もうちょっと下の方で……はい、その位置です! じゃあそれでもう一度「お手」をやりましょう!」
「お手って、この状態で……?」

 ミルヒに言われたとおり位置を調整しながらも、彼女の言葉に首を捻るシンク。
 この形からではさすがにどう見ても「お手」には見えないだろう。この格好から手を合わせれば、それは、

 ――ああ、なるほど。ハイタッチがしたいのか。

 心の中で得心言ったかのように頷くシンク。この体勢のままお互い掌を合わせれば所謂ハイタッチになる。
 趣はだいぶ異なるが、確かにただ手を乗せるよりもそれらしい事をしている気分にはなるだろう。

 ――それに、ハイタッチなら変な罪悪感にも生まれないし、いい事尽くめじゃないか。

 ミルヒをペット扱いする、という耐え難い重圧から一時的にでも逃れられた事で肩の荷が降りた気分になったシンクは朗らかな笑みを見せながら手を差し出した。

「わっかりました! それじゃあ姫様、はい! お手ですっ!」
「は、はいっ! 行きます!!」

 何故かこちらの言葉に、緊張した面持ちで気合の篭った返答を返すミルヒ。
 彼女は左手を掲げると恐る恐ると言った様子で差し出されたこちらの右掌と重ね合わせ、

「え、えっと……はい……お手、です」

 頬を紅く染め、俯きがちに呟くミルヒ。そんな彼女から視線を右側へと移せば、そこには温かな感触と共にしかとミルヒの左手と繋がれた己の右手があった。
 それも単に握手しているというわけではない、指と指をそれぞれ絡ませた恋人繋ぎ、と俗に呼ばれるヤツだ。

 だがシンクは自分の身に何が起きたのかを理解できず、暫らく繋がれた手を見詰めた後、再度視線をミルヒへと戻す。
 彼女はやはり俯いたまま、しかしぴこぴこと耳と尻尾だけが元気に動き回っている。

「えっと、あの……姫様?」
「あ、や、やめちゃダメですっ」

 こちらの手が離れる事を恐れてか、ぎゅっとこちらの手を握り締めてくるミルヒ。それでも振り払おうと思えば幾らでもできる程度の力でしかないのだが、

「こ、これはですね……そ、そうですっ! 勇者の遺物にちゃんと記述してあったんです。ご主人様の真のペットとなる為には、この状態で五……じゅ、十分はこの状態のままじゃないといけないと!」
「へ? いやでもこの本にはそんなことどこにも――」
「べ、別の本です! 別の本に書いてあったんです!」

 顔を真っ赤にしながらやけに力強く断言するミルヒ。その勢いにシンクは思わず頷く。

「わ、わかりましたっ。た、ただ姫様、顔っ、顔が近いです!」

 前のめりの姿勢で顔を近づけてくるミルヒを避けるように身を仰け反らせるシンク。もちろん二人の手はこの瞬間も繋がれている為、逃げるにしても限界がある。

「……じゃあ、その暫らくこのままって事ですか?」
「え、ええ。そうです暫らくこのままで」
「…………」
「…………」

 掌を重ね合わせた状態のままその場に正座し、他に特にすることもないのでなんとなく互いに見詰め合う二人。そうこうしているうちに先程までの勢いは為りを潜め、ミルヒはそのまま恥ずかしそうに俯いてしまった。ただ、尻尾だけが一定のリズムで左右に揺られている。

 ――えーっと、いったいなんなんだろう、これ?

 どうにもミルヒが何をしたいのかを理解できず、首を傾げるシンク。
 ただ反応を見る限り嫌がっているわけではなさそうだし、とりあえずこのままでいいのかなー、と特に意識することなくミルヒの手を優しく握り返す。
 瞬間、びくんとミルヒの全身が強張り、尻尾がぴんと天井に向かって逆立った。

「あ、すみません。痛かったですか?」
「あ、いえ、そんなことないですないですっ!」

 ぶんぶんと激しく首を左右に振り、否定の意を示すミルヒ。だが、言葉とは正反対に随分と緊張してしまっている様子が伝わってくる。
 繋がれた掌からはじんわりとした温かさと共に、どくんどくんと響く鼓動の音さえ感じる。そのリズムに導かれるかのように、シンクもまた妙な気恥ずかしさを覚えていた。

 幼い頃からレベッカやナナミと過ごして来た事もあり、普段ならば女の子と手を握ったぐらいでこうも緊張する事はないシンクだが今は気の効いた言葉も言えず沈黙を保つ事しかできなかった。
 そうして互いに口を開かぬまま部屋の片隅に飾られた時計が鳴らすカチコチという時を刻む音だけが場を支配する。

 間が持たない。そう心の底から思ったシンクはなんでもいいから話題をと口を開こうとしたその時だった――唐突にシンクの部屋の扉がやや強めのノック音を響かせた。
 静まり返った部屋に響き渡るノックの音は、シンクの心臓を一際大きく跳ね上がらせるには充分すぎる威力を秘めていた。更には続く扉越しの声がその思いに拍車を掛ける。

「おい、アホ勇者。私だ。居るなら返事をしろっ」

 エクレールだ。やや苛立ちを交えた声はシンクに対してはいつもの事――なのだが、それにしても不機嫌を露にした声色だ。
 マズい。と論理的にではなく本能が警鐘を告げる。

 別にやましい事をしているわけではないのだが――いや、一国の姫をペットにしているというのはやましい事なのか――だけどそれはお互い合意の上の事だし――だとしても今この現場を見られるのはヤバいんじゃ――そもそも相手がエクレールだし!?
 混乱する思考ではあるものの、最終的に第一級の警戒態勢を己に強いるシンク。

「おい、居ないのかっ! …………むぅ、姫様はどこに行かれたのだ? 先程この辺りで見かけたからてっきり勇者の所にいると思ったのだが……」

 扉の向こうでかなり鋭い推測を披露するエクレール。見ればミルヒもまた大きく目を見開いて「ど、どどど、どうしましょう!?」と無言のまま表情だけで語っていた。

 一番無難なのはこの場で居留守を使う事だ。エクレールはこの部屋に誰もいないと思いかけているみたいだし、このまま放っておけばその内どこかに移動する――、

「仕方ない。ここで帰って来るのを待つか。どうにもアイツは何か知ってそうだからな」

 ――つもりはないらしい。恐るべきは彼女の持つ動物的勘か。

 だが、これで居留守を決め込むわけには行かなくなった。何しろミルヒを逃がす為の唯一の出入り口である部屋の扉を抑えられているのだ。
 窓から脱出する、という手が無くはないがシンク一人ならともかくミルヒを連れて行くのは難しい。そもそもこんな間抜けな理由でミルヒを危険に晒すわけにはいかない。

 ならば――、

「あっ、ご、ごめんエクレ。ちょっと待って!」
「む? なんだ居たのか。なぜさっさと返事をせん」

 扉の向こうへと声を張り上げるシンク。エクレールの声が聞こえる中、そんな突然の行動に驚きを隠せぬままのミルヒへと向き直り、声を掛ける。

「えっと、姫様。今から僕がどうにかしてエクレと一緒にこの場を離れますから、姫様はその間にここから脱け出してください。そうすれば多分バレないと思いますんで」

 取り急ぎこれからの計画をミルヒへと説明する。刹那の間に導き出した代替案だが、一応は理に叶っている筈だ。ミルヒもそれを理解したのか「わ、わかりましたっ」と小声で呟き、コクコクと頷く。

「じゃあ僕はエクレのとこに行きますから姫様は暫らくこの部屋に隠れて――」

 そう言って早速作戦に取り掛かるべく立ち上がろうとするシンク。
 だが、やはり彼も突然の事態に混乱していたのだろう。シンクもミルヒも一つの事実をすっかり失念していた。

 それは今この時点においても、彼等の手が繋がったままだという事だ。長時間繋いだままの手はすっかり凝り固まり、指先を絡めるような繋ぎ方だった為お互い咄嗟に手放す事ができなかったのだ。
 そんな状態のままシンクが急に立ち上がろうとした為、当然ながらミルヒは突然手を引かれる形となる。その動きについていけずバランスを崩したミルヒは、

「きゃ、きゃあっ!!??」
「う、うわぁっ!?」
「なっ!? 今の悲鳴は――姫様!?」

 シンクに向かって蹴躓いたよう身を前へ。ミルヒにぶつかられる様な形となったシンクも突然の衝撃にバランスを崩す。シンク一人ならばどうにでもなる程度の事故。だが、彼は倒れるミルヒを庇うように手を回し、そのまま二人はもつれ合うように倒れていった。

「――つぅっ!」

 肩から床にぶつかるように倒れるシンク。受身もとれず衝撃が走る、だがそのおかげで抱きとめたミルヒへの衝撃は最小限に抑えることに成功した。

「いてて……ひ、姫様。大丈夫ですか?」
「へ、は、はい……大丈夫、でう」

 痛みに顔をしかめながらもミルヒの安否を気遣う。その返答が思いの外近くで響いたことに驚き見れば、それこそ目と鼻の先に驚きの表情で頬を赤らめるミルヒの顔が視界いっぱいに広がっていた。

「え……? ひ、姫様……?」

 よくよく考えれば両の腕はミルヒを守るべくその背に回されている。つまるところ力強く抱きしめてしまっているようなものだ。胸の中にいるミルヒとの距離は必然ともいえる近さになってしまっていた。
 いったいどうすれば――と問うのならば、さっさと回した手を解きミルヒを解放すればいいのだが、抱きとめたミルヒの体温と鼻腔をくすぐる香りに混乱する身体が反応しない。

 超至近距離で見詰め合う二人。微動だにできぬままただ時間だけが過ぎていく。

「おい貴様……何をしている」

 ようやくの事で正気を取り戻せたのはどこか冷徹な印象を思わせる声が頭上から降りかかってきたおかげだ。それこそ冷水を浴びせかけられたかのように反射的に視線を上げれば、そこには怒りを通り越した無の表情のままこちらを見下ろすエクレールの姿が。

 ミルヒの悲鳴を聞きつけて強行突破してきたのだろう。その向こう側には修理したばかりだというのに再び弾け飛んだ扉の残骸が転がっている。

「ひ、ひぃっ!? エクレ!?」

 圧倒的なまでの生存本能がミルヒをこのまま抱きしめていたいという衝動をあっさりと超越した。ミルヒを解放するや否や条件反射的に跳ね起き、その場に正座する。既に説教体勢が身に染み付いてしまっている勇者であった。
 そんなシンクに追随するように、身を起して居住まいを正すミルヒ。なぜかその表所は何処か不機嫌そうであった。

 だが、当然ながらシンクはそんなミルヒの感情の機微を察してやる事はできない。それよりも今は目の前の驚異をどうにかするのが最優先事項であった。

「あ、あのエクレ。今のはそのちょっとした事故というか、姫様が転びそうになったからその助けただけで……ね」
「ほほう。そうか……そうだったのか。それはすまない。勘違いをしていたようだ」

 意外なことに、こちらの言葉が伝わっているのか鷹揚に頷くエクレール。彼女は平坦な声音を崩さぬまま、

「ならば、きちんと礼をしなくてはならんな」

 背負った二振りの短剣をゆっくりと引き抜くエクレール。

「エ、エクレ!? あってないよ!? セリフと行動が噛みあってないよ!?」
「フフフ……何を言っている? 御礼にこの私が直々に稽古をつけてやると言っているんだ。もっと喜ぶがいい」

 その瞳の奥に「殺」の文字が浮かんでいるのがシンクにはありありと見て取れた。

「だっ、だいたい貴様! 姫様を自分の部屋に連れ込んで一体何をするつもりだったのだ!? ま、まさか私にしたような破廉恥な行いを姫様にまで……ッッ!?」
「ちっ、違うっ。誤解だってば!?」

 短剣の切っ先を突きつけられたまま両手を挙げ、降参のポーズのまま弁明するシンク。
 そんな中、背後から服の裾がくいくいと引かれる。こんな時に何事かと後ろを振り返れば、そこには何故か表情を笑みの形にしたミルヒが居た。

 その表情を見て、ミルヒの方から何かフォローしてくれるのだろうかと、蜘蛛の糸に縋るような顔を見せるシンク。だがしかし、

「……破廉恥な行いって、なんですか? エクレに、何をしたんですか?」

 一気に体感温度がゼロになった。
 ミルヒの顔に浮かんでいるのは端整な笑みだ。ただ何故かその表情は仮面のように硬く、微動だにしない。そんな文字通り貼り付けたような笑みのまま淡々と語るミルヒの額には何故か大きな青筋が浮かんでいるようにシンクには見えた。

 怒っている。先程までやたらと上機嫌だったミルヒが今は怒りの炎を胸の内で確かに燃え上がらせていた。
 だが、確かに先程の言い分だとまるで自分がエクレールに不埒な行いをしたかのように聞こえなくもない。ならば主従を超えた友人とも呼べる関係であるミルヒがいい気分になるわけがない。

 だがそれはまったくの事実無根――いや、実際にしたかしてないかで言えば確かにエクレールの胸を揉んだり服を剥いたりしてしまった事はあるが、あれは不幸な事故であり、断じて故意の行いではない。

「ひ、姫様っ、聞いて下さい。確かにエクレとは色々ありましたけど――」

 それだけは解ってもらおうと言葉を紡ぐシンク。だが、

「ほ、ほらっ! なんで私の事は『姫様』なのに、エクレの事は『エクレ』ってそんなに親しげに呼んでるんですかー!?」

 こちらの言葉を遮り、今度こそ不機嫌な表情を隠さぬまま声を荒げるミルヒ。しかしその内容は当初の予測から掛け離れているような気がしなくもない。

「……私の事だって、ミルヒって呼んでくれても別にいいのに」
「え……? あの、姫様。今なんて……?」
「なっ、なんでもないですっ!」

 ぼそぼそと呟かれた言葉を聞き取れず、尋ね返すがミルヒは怒ったように叫ぶだけだ。
 そんなミルヒの態度に、シンク以上に驚いていたのはエクレールだ。
 彼女はシンクに短剣を突きつけたままぽかんと口を大きく空け、呆然とした表情を浮かべている。

「あ、あの……姫様?」
「ふぇ……? あ。エ、エクレ!? あ、今のはその、な、なんでもないんですよ?」

 そこでようやくミルヒはエクレールもこの場に居た事を思い出したのか、慌てた様子で居住まいを正すミルヒ。
 一つ咳払いを居れ、王族モードに戻った彼女は出来る限り威厳のある調子で声を紡ぐ。

「え、えーっとさっきのはその、勇者様が仰ったとおり私が転びそうになった所を助けていただいただけです。この部屋に来たのも……その、私が自主的に遊びに来ただけで、勇者様に責任はありません」

 まぁ確かに大筋において嘘ではない。

「ですので、あまり騒ぎ立てないで下さい。ここで見たことも、その出来る限り内密にしてください」

 先程の自分の痴態も含め、という意味で念を押すミルヒ。対し、エクレールは「は、はぁ……」とまだ少しばかり混乱しているのか、気の抜けた返答を返した後、ふと気づいたある“違和感”について口を開いた。

「あの……姫様。少々お伺いしても宜しいでしょうか?」
「なっ、なんでしょう?」

 王族モードのまま鷹揚に促すミルヒ。その言葉に従い、エクレールは気づいた事をそのまま口にした。


「その…………首に掛けてあるものはなんでしょう?」

『…………あ』


 シンクとミルヒの声が重なる。
 ミルヒの首には、未だにそれは立派な首輪が掛かったままだった。



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