魔法少女リリカルはやて テスタメント 1-1


 鐘の音が、大きく世界を震わせた。

 がらぁん、がらぁんと鳴り響く鐘の音は雪に覆われた白い町並みに凛然と響き渡る。
 そこは古びた町だった。

 近代技術とはかけ離れた石の舗道と煉瓦によって組まれた背の低い家々が続く町並み。
 それはまるで中世の頃にタイムスリップしたかのような錯覚を八神はやてに思い起こさせる。

「八神さま、どうかされましたか?」

 雪の降り積もった道の真ん中、そこで足を止め空を振り仰ぐはやて。
 そんな彼女を案じるような声が鐘の音に紛れて聞こえてきた。
 幻想的な光景に呑まれていたはやてはその声に我を取り戻したのか、慌てた様子で視線を空から落とす。

「え? ああ、すみません。いきなり大きな音が鳴ったからなにかと思って」

 視線の先、ローブに身を包んだ老人が心配げな表情を浮かべていた。
 雪のように白い顎鬚を蓄えた好々爺といった雰囲気の優しげな老人だ。
 彼ははやての返答に、同じように空を見上げ、得心言ったかのように頷く。

「ああ……これは祝福の鐘ですな」
「祝福の……鐘?」

 オウム返しに尋ねるはやて。
 その声に老人はどこか楽しげに――まるで宝物を見せびらかす子供のような――微笑を浮かべた。

「……ふむ、そうですな。口で説明するより実際に見てもらった方が早いでしょう」

 すぐ近くですよ、と先導する老人に連れられ、暫らく雪道を歩くはやて達。
 やがて辿り着いたのは鐘楼付きの建物。剣十字のレリーフを掲げたそれはこの国特有の教会だった。

 鐘楼に吊られた鐘がもう一度、大きくがらぁんと空に向けて澄んだ音を奏でる。

「こちらです。八神さま」

 そう言って正面の大扉ではなく、その脇に取り付けられた勝手口に立ち、手招きしてくる老人。
 そちらに近づくと彼ははやてに向かって人差し指を立て、自分の唇に当てる仕草を見せた。

 ここから先は静かに、という事だろう。その意を汲んではやても黙したままただ頷く。
 その応えに笑みを浮かべた老人は、ゆっくりと勝手口の扉を開き教会の中へと足を踏み入れた。

 それに続き、協会の中に足を踏み入れたはやては、そこに大勢の人々が居ることに目を丸くした。
 それほど大きな教会ではない。三十人も人が入れば一杯になる程度の建物だ。
 しかし今、教会の長椅子には多くの人々が座り、皆優しげな眼差しで一点を見詰めている。

 その視線を追ってみれば、自然と最奥に設えられた祭壇へと辿り着く。
 そこにはゆったりとした祭服に身を包んだ老齢の男性と、その前で膝を付く若い女性の姿があり、彼女は柔らかな布に包まれた何かを優しく抱いていた。

 赤ん坊、だ。わんわんと泣き喚く声だけが、今教会の中に響いていた。
 まだ生まれてそう月日は経っていないだろう。ぐずる赤子を母親らしき女性は優しい微笑を浮かべ、あやしていた。

 そんな親子に向かって、神父らしき男性が十字を切る。
 どこか儀式めいた、しかし誰もが優しい笑みを浮かべているその光景を、はやては参列者席の後ろでただただ言葉もなく見詰めていた。

 そんな彼女の隣で、笑みを浮かべている老人が補足するように小さく呟く。

「我が国では新しく子供が生まれると教会の神父様にああして、祝福を頂く風習があるのですよ」
「なるほど……えっと、あれは、いったい何を塗ってるんですか?」

 見れば、神父は祭壇の上に乗せられた銀盆に溜められた液体――鼠色をした粘性のある何か――を指で掬い上げ、それを赤子の額に恭しい手つきで塗りつけていた。
 そのまま神父の指先は赤ん坊の小さな額に何かを描くように踊る。

「ああ、あれは泥ですよ」
「泥……ですか?」

 不思議そうに首を傾げるはやて。
 その間にも儀式は続いていた。赤ん坊の額に泥を塗り終えた神父は、再度親子に向けて十字を切ると、教会内に響くような声で高らかに叫ぶ。 

「この者に、胸いっぱいの祝福と、そしてほんの僅かな災いを!」

 突然の神父の、わ、と肩を竦めるはやて。だが、彼女の反応よりも早く、長椅子に座る参拝者達が口を揃えて神父の告げた言葉を唱和する。

「この者に、胸いっぱいの祝福と、そしてほんの僅かな災いを!」

 視線を隣に、そこでははやてと共に来た老人も胸の前で十字を切り、小さく呟いていた。

「この者に、胸いっぱいの祝福と、そしてほんの僅かな災いを」

 そのまま暫らく黙祷を続ける老人の横顔を、まじまじと見詰めるはやて。
 そんなはやての視線に気づいたのか、老人は人好きのする笑みを浮かべる。

「ああ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたかな」
「あ、いえ、そないなことは無いんですけど……さっきのはいったい?」
「あれは我が国における誕生を祝福する祝詞です。誕生日を迎えた者などに、先ほどのように送る言葉なのですよ」

 この者に、胸いっぱいの祝福と、そしてほんの僅かな災いを――そう告げられた祝詞を思い返し、はやては首を微かに捻る。

「そうなんですか……でも、なんで祝福の言葉で災いを願うたりするんですか?」
「ああ、確かに始めて聞く方には不思議に思われる事かもしれませんね……ふむ。これは神職でも無い私が説法するのもお恥ずかしいですが、そうですね」

 そう言って、老人ははやてから視線を外し、祭壇の前で祝福を授けられた親子の姿を慈しむような眼差しで見詰めていた。

「この世界は常に比較する事によって形作られています。例えば幸福なだけの人間は、それが幸福だと気付くことはできないでしょう。自分が幸福だと理解するには、不幸であることを知らなければならない」

 その言葉にはやては考える。
 自分は幸せだと。大切な家族に、そして友人たちに囲まれた人生。
 それが何よりも大切で、幸せな事だと知っている。

 だが、それは裏を返せば彼女が家族を失う苦しみを知っていると言う事に他ならない。
 だからこそ、彼女は自分が幸せだと、理解する事が出来ているのだ。

「己が幸せである事を、祝福されて生まれた者である事を知って欲しい。それ故に、我等は生まれてくる子らに、胸いっぱいの祝福と、ほんの些細な災いを願うのです」
「幸せであると、知る為に……?」
「まぁ、現実的な事を申し上げますと、この国はご存知のとおり極寒の大地です。建国以来、その自然の脅威に晒され失われた尊い命は少なくありません。ただ普通に生活することですらここでは死活問題となりえます」

 はやてもその言葉の重みを知っていた。
 そもそもこの国は、人が住める環境ではないのだ。

 それを無理矢理、科学と魔法の力によって人の住める環境にしているに過ぎないのだ。
 生きていく為には仕方の無い事だとしても、そのしわ寄せはこの世界に住む人々に降りかかる。

「けれど、そのような環境の中でも、他者を妬むことなく、ほんの些細なことでもいい、己の幸せを見つけて欲しい――そんな願いが、あの言葉には込められているのではないか、と思うのですよ」

 けれど。そんな厳しい環境の只中で過ごしていてもこの国を見捨てる事無く、強く生きている人々がいる。
 老人はまるでそれが己の誇りであるかのように、晴れ晴れとした表情でそう語ってくれた。

「ま、今のは年寄りのただの戯言ですがね。神父様ならばもっときちんとしたお話を聞けるのですが……少しお話を聞いていかれますかな?」

 かっかっか、と快活に笑う老人。見れば儀式は終わったようで、参列者達は皆離席し始めていた。

「あ、いえ。私のわがままにそこまで付き合わせるわけには……」
「ははは。そのように遠慮なさらずとも、この世界の救世主様の為ならこの村のものは皆喜んで身を折りますぞ」

 救世主、と呼ばれ困ったように眉根を下げるはやて。

「救世主って、そないおおげさな……」
「何を仰います。あの時八神様がいらっしゃらなければ我々はこうして新たな命の誕生を祝福する事すらできなかったのですよ」

 大げさにではなく、心の底から叫ぶ老人。
 その言葉に、はやては十年前の出来事を思い返す。

 第十七管理世界――現地惑星名称ニブルヘイム。

 この世界にはやてが訪れたのは、これで二回目だ。
 十年前、はやては“今回と同様に”とある事件の調査の為に単身この世界に赴いていた。
 調査を進める内に、それは管理局の想像を遥かに超え、後にユグドラシル事件と呼ばれる世界を揺るがすような大事件となった。

 当時のはやてはようやく捜査官の端くれになった程度の新人だ。
 だが、どんな運命のいたずらだろう。ユグドラシル事件において、八神はやては文字通りこの世界を滅亡の危機より救って見せた――ということになっていた。

「そう言うて貰えたら嬉しいんですけど、あの時の私はそない言うほど役に立ってなかったですし……」
「これはご謙遜を。あの時の八神様はまさしく我らにとっての救世主であらせられたと言うのに」

 なんの虚飾もない賛辞の言葉に、あははと力のない笑みを浮かべるはやて。
 あの時のはやては確かにこの世界を救う為に全力を尽くした。

 だが、全力を尽くした所で救えないものはある。

 あの当時、世界を救ったのははやてではない。
 ちょっとした偶然と、たくさんの人達の協力があったからこそ救えたものがあったのだ。

 はやてはそれを誰よりも知っている。そしてその惜しみない賛辞を“甘んじて受けなければならないことも”。
 だからはやては老人の純粋な畏敬の眼差しに耐えられず、ふと視線を彼から外した。

 はやての視界に映るのは、開かれた教会の大扉から出て行く参列者達の姿。
 そこに浮かぶ表情は皆一様に新たな生命の祝福に、笑みを浮かべていた。

 人々のそんな笑顔を見て、はやては思う。
 これでよかったのだ、と。

 経過はどうあれ、彼等は確かに救われた。ならば自分のやってきた事は間違ってなかったのだと。
 そう、自らも穏やかな微笑を浮かべるはやて。

 ――その時、だった。

「…………え?」

 参列者達の向こう、大扉ではなく小さな勝手口が、静かに扉を揺らした。
 それはいい。だが、そこから出て行く人影がはやての視界に一瞬だけ映った。

 男か女かも解らない。しかしはやては確かに見た。
 勝手口の向こうに消えていく、美しく輝く長い長い銀の髪を。

 その輝きに、はやては心を奪われた。

「八神様? いかがなされましたか?」
「す、すみません。ちょっと席を外しますっ!」

 はやての様子に何かを感じたのか、心配そうに尋ねる老人。
 しかしはやては訝る老人をそのままに、気づけば弾けるように駆け出していた。

 人の波を強引に割り、勝手口に駆け寄るとそのままの勢いで外へと飛び出る。
 辺りを見回すが人影は無い。だが、代わりに降り積もった雪に小さな足跡が残されていた。

 自分自身、何をしているのか理解する事もできず、本能のままに足跡を追って駆け出すはやて。
 心臓の鼓動が、どくどくとうるさいくらいに響いていた。
 走っているからではない。あの姿を一目見た瞬間から鼓動は強く、痛いくらいに鳴り響いていた。

 ――あれは……あの姿は。

 ありえない、とはやては心の奥で強く思う。

 彼女は、居なくなったのだ。
 十三年前の聖夜の日、彼女は遠い遠いどこかへと旅立ってしまった。

 だから、その彼女がここにいるわけがない。
 彼女とはもう二度と、会う事はできやしない。

 何度も何度もそうやって自分に言い聞かせる。

 なのに、足は止まらない。降り積もった雪に刻まれたその足跡を追い続ける。
 どれほど走ったところで、“彼女”には追いつけやしないと知りながら。

「ま、待ってっ!」

 叫ぶ。
 想うように。願うように。

 そしてその声は――彼女に届いた。
 はやての視線の先、そこで彼女はこちらに背を向けたまま立ち止まっていた。

 腰まで届く銀の長い髪。けして忘れることの無いその輝き。
 肩で息をしたまま立ち止まったはやては、ただじっと、その後姿を見詰める。

「リイン……フォース?」

 それは、祝福の風を意味する名前。
 アインスから、ツヴァイへと受け継がれた名前。

 その名に引かれるように、銀の髪の彼女はゆっくりとこちらへ振り向いた。
 血のように真っ赤な瞳が、静かにこちらを見詰めている。

 その眼差しに射抜かれ、はやては言葉を失う。
 言葉にする声を持たぬはやてを見詰めたまま、少女は無表情な眼差しで静かに呟く。

「“はじめまして”。救世主さま」

 その少女は、長い間闇の書の意思と呼ばれ、数多の命を奪ってきた存在に。
 そしてほんの一時だけ、祝福の風と呼ばれ幸せだった誰かととてもよく似た――

 ――はやての知らない、少女だった。






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