魔法少女リリカルはやて テスタメント 1-8


「ふぃー……身体の芯まで暖まるわぁー」

 そんなはやての弛緩した声が広い空間に木霊する。
 流れる水音が響く中、広く閉じられた室内には白色の湯気が充満していた。

 そこは西洋風の拵えで出来た、巨大な浴場だった。
 一人で使うには不必要な程に広いその浴場で、はやてはちょっとしたプール程もある湯船に肩まで浸かり、心地よさげな吐息を漏らしていた。

 ここはヘルの館にある巨大浴場。
 本日の調査に一区切りつけたはやては、日中の疲れを洗い落とすかのように湯船の縁に頭を預ける。
 その周りに守護騎士達も含め人影はない、その事実にはやては残念そうに呟きを漏らす。

「こんだけ広いんやから、みんなで一緒に入ったらええのになー」
『申し訳ありませんが、我々はあのヘルという御仁にもここの警備体制にも信用を置いておりません。なればこそ主の身を護るのは私達の仕事かと』

 応える声は思念通話として直接はやての頭の中に響いた。
 はやては遠慮したのだが、守護騎士達はそれだけは譲れないと今は浴場の周囲でそれぞれ警戒に当たっている。

『ま、そーいうこった。はやてはそこでゆっくり休んでてくれよ』
「そんなに気ぃ張らんでもええのになー」

 そのまま力を抜いて湯船に深く身を沈めるはやて。
 一緒に入った方が楽しいのになー、と不満そうな表情でぶくぶくぶく、と気泡を吐く姿は幼い子供のようだ。

 やがて、それにも飽きたのか、彼女は広い湯船の中ほどに移動すると、ぷかりと仰向けに浮かび、そのまま高い天井を仰ぎ見る。
 そうして思い返すのは今日一日の出来事だ。

「区長さんには悪い事してもうたなー。出来るだけ迷惑かけへんつもりやったのに……」

 遅かれ早かれ、自分の来訪が露見する事は織り込み済みではあったが、まさか調査初日で商売敵とも言えるフェンリル騎士団にこちらの所在がバレたのは予定外であったし、かなりの痛手だった。
 あの後、区長は「私の力が足りないばかりに、申し訳ない」と何度も謝罪してきたが、原因は良きにしろ悪しきにしろ、自身のこの国における知名度を過小評価しすぎていた事が問題だ。

「まさか自分の銅像まで建っとるとは……完全に予想外やったわ……」

 ハァ、と大きな溜息をつくはやて。ユグドラシル事件から十年、まさか自分が未だにこの国の人々の間で語り継げられているとは思いもしてなかった。
 自分を救世主さまと呼んで慕ってくれる小さな子がいる事実にどうにもムズ痒い感情が湧いてくる。

「そう言えば……あの子も私の事、そう呼んどったな……」

 思い出すのは昼間に一瞬だけ出逢った銀髪の少女の事だ。
 彼女がいったい誰なのかは未だに解らない。

 だが、彼女がはやてが追っている事件と何らかの関係を持っている可能性は高い。
 まだ断定は出来ない。だがただの他人の空似と判ずるには、彼女はあまりにも“彼女”に似すぎていた。

「ただの偶然……やぁないんやろうな……」

 意を決したように呟くはやて。
 そのまま彼女は水面を割るように湯船から立ち上がる、そこに浮かぶ表情は何処までも複雑な色を見せている。

 やるべき事は決まっている。だが、本当にそれが正しい事なのかどうかが解らない。
 それでも、

「もういっぺん、逢わなあかんやろうな」

 真摯な眼差しで、そう呟くはやて。
 次の瞬間だった。

「おいおい、何を真面目に語ってるんだ八神はやて」

 声は、突然背後から聞こえた。
 同時にはやての脇の下から白い手が一対にゅっと伸びてきたかと思うと、その五指がそれぞれはやての胸を持ち上げるようにして力強く握り締められた。

 いわゆる鷲掴み、である。

「にゃ、う、うわぁああああああっ!?」

 突然の背後からの急襲に思わず悲鳴をあげるはやて。
 それでもこちらの胸を握り締めて離さない腕を振り払うように、反射的に身を捻りつつ距離を取るように後退するはやて。

 だが湯船の中での急な慣性機動に身体がついて行かず、そのままぐらりと身体のバランスを崩すはやて。
 結果、今度は悲鳴を上げる間もなく彼女は倒れるように湯船に沈み、派手な水飛沫をあげた。

「おいおい、随分と慌しいなぁ八神はやて」
「な、なななな……ヘ、ヘル!?」

 半分湯船に沈んだ状態のまま見上げれば、そこには何時の間にか現れた全裸のヘルが仁王立ちの状態で佇んでいた。
 彼女は長い金髪を結ぶ事もせずに、その子供じみた扁平な体系の身体を隠そうともせずに此方に晒している。
 そのままはやての声に反応する様子もなく、何かを確かめるようににぎにぎと両手の指で宙を握るジェスチャーを何度か入れると、

「ふむ……随分と成長しているみたいじゃあないか八神はやて。十年前はつるぺただったのにな」

 そう言って、何故か得意満面な笑みを浮かべるヘル。
 対するはやては思わず自分の胸を腕で覆い隠すようにして、

「い、いきなり人の胸揉むって、なに考えてんねん自分っ!?」
「……貴様がそれを言うのか?」

 はやての言葉に心底呆れた様子で呟くヘル。
 だが、はやてがそんな己の今までの所業を省みる前に、焦りを含んだ思念通話の声が頭の中に飛び込んでくる。

『主はやてっ!? どうされましたか、今悲鳴のような声が……!?』
「へっ!? あっ、やっ、な、なんでもないで。ちょっと湯船の中で転んだだけやから心配せんでええよっ」
『そうですか……なら、良いのですが……』

 どこか納得の行かない様子を見せながらも、それ以上言及することなくシグナムからの思念通話が切れる。
 不審者が現れた、と正直に言っても構わないのだが今ここで守護騎士達とヘルが鉢合わせすれば碌な事態にならない事は確実だ。

 未だに動悸が治まらないまま、はやてが半眼で視線を移せば、当のヘルは何食わぬ顔で頭にタオルを乗せ、湯船に肩まで浸かっていた。
 そんなヘルの姿に、もはや何を言っても無駄と悟ったのだろう。一際大きな溜息をつくとはやても再度湯船に肩まで浸かり、ヘルの隣へと場所を移動する。ただし、人一人分のスペースを持って。

「それにしても、ようシグナム達が入れてくれたなぁ。あの子らアンタの事そうとう嫌ってるでー」

 とりあえず、話を変えようと話題を此方から紡ぐはやて。
 そもそも犬猿の――というには一方的に守護騎士達が敵視している――仲であるヘルをシグナム達がはやてが一人でいる場所へそう易々と通すとは思えない。
 そんなはやての問いに、ヘルは何処までもあっさりと応える。

「ん? あー、そういえば入り口で仁王の如く立っておったなぁ。頼んでも入れてくれそうになかったからこっそり這入ってきた」
「こっそりって……」

 驚きを通り越して、もはや呆れたように呟くはやて。
 今、守護騎士達ははやてに不埒者を近づかせぬようにと全力で警戒に当たっている筈だ。それこそ猫の子一匹通さぬつもりで。
 そんな彼女達の警戒網をこうもあっさりと乗り越えてくる目の前の少女。

 予想外だとは思わない。“コレ”は炎帝ニブルヘイムの直系の子孫でありながら一切の魔力資質を持たず、出来損ないと呼ばれ王位を奪われてなお、けして敗北することのなかった魔女だ。
 守護騎士達に見つかることなく進入する事など、彼女にとっては容易い事だろう。

「フフフ、これで出る時に悠々と出口から出てみろ、奴らめ、プライドをズタズタにされて酷く傷つくのではないか。ククククク」

 心の底から楽しそうに微笑むヘル。笑う姿はまるで天使のようだが、言ってる事は完全にただのイジメっ子だ。

「あんまりあの子達のことイジめんといたってや……まぁ言うて聞くタマやないやろうけど……」

 額に手を付き、心底困った様子で呟くはやて。
 そんな彼女にヘルは柔らかな笑みを浮かべつつ、スッと近づくとそのままはやての肩にしなだれかかる。

「ククク、そう妬くなよ八神はやて。心配しなくても貴様は私にとって、ここ一番のお気に入りだよ。愛してるって言葉は嘘じゃあない……」
「いや、ホンマ勘弁してほしいんですけど……アンタがなんで私に入れ込んどるかは知らんけど、私なんかどこにでもいるただの小娘ですよ、いや本当に」

 身体をピタリと摺り寄せ、耳元で囁いてくるヘルに心底嫌そうな表情を浮かべて距離を取ろうとするはやて。
 そんな彼女のリアクションに、しかしヘルは楽しげに微笑みながらあっさりとその距離を離す。

「面白い冗談だな。つまりただの小娘が世界を救い、救世主となったわけか。フフフ、まるでどこかの御伽噺みたいじゃないか」
「――って、ああっ!? そう言や思い出した!? アンタやろ、要らん協力までしてあんな銅像建てたの!?」
「ほう、アレを見てきたか。ククッ、なかなか良い出来だったであろう? 都合があえばこの館のホールにも飾ろうと思っているのだがな」

 銅像の件を思い出し食ってかかるはやてだが、ヘルは余裕の表情を崩さない。
 むしろどこか誇らしげな表情である。

「アンタ、本当に人に嫌がらせするんが好きなんやな」
「ハハハッ。これは心外だな。私はあくまで善意で行ったつもりなのだがなぁ」

 そうしてヘルは顔に笑みを貼り付けたまま、覗き込むように鋭い視線をはやてに注ぐ。
 まるでこちらの心の奥底を見透かすかのように、じっと。

「どうだ八神はやて。救世主サマになった気分は? 気持ちいいだろう? 町の者は皆貴様に羨望と畏敬の念を抱いているぞ。小さなガキからくたばり損ないのジジイまで救世主サマに祈りを捧げている。この過酷な極寒の大地において、今や貴様は民衆どもにとって希望の光だ。ハハハ、さすがは救世主サマだなぁ」

 楽しそうに、嬉しそうに語るヘル。
 対し、はやての視線は眼下。広がる水面に映る自分の鏡像を見据えていた。そこに映る表情は暗く沈んでおり、

「…………私は、そないな人間やない」

 そう、辛そうに呟くはやて。

「ハハッ。アハハハッ。ああ、そうだったな八神はやて。本当の貴様はただの小娘だ。なんの力もない、なんの奇跡も起せない。他の誰かの力を借りなければ、世界のひとつも救えないか弱い女だ」

 十年前のあの日、はやてはニブルヘイムを救い、救世主と呼ばれるようになった。
 だが、はやてと――そしてヘルだけが知っている。
 それが創られた幻想である事を。

 確かにユグドラシル事件はやてが居なくては解決せず、ニブルヘイムは滅んでいたかもしれない。だがたった一人の力で世界が救えるわけがない。
 あの事件はヘルを含めた多くの人々の協力によって成し遂げられた奇跡だ。それはけしてはやて一人が称えられるべき功績ではない。
 けれど、はやては救世主と言う業を、たった一人で背負わなくてはならなかった。

 なぜならそれが、

「それが、十年前のあの日。私が貴様に協力する為の条件だったからだ。なぁ八神はやて。どうだ救世主に“させられた”気分は? どうか私に教えてくれないか?」
「今は最悪の気分やな……」

 ヘルの協力がなければ、十年前の事件ではもっと多くの人が死んでいただろう。
 だから、彼女の協力を得るためにはやては彼女の提示する条件に一も二もなく飛びついた。
 それがどういう意味を持つかさえ理解せずに。

 だが、今なら理解できる。
 この女は何時だって、八神はやてが苦しむ姿を見たいだけなのだと。

「なぁ八神はやて。貴様はあの時言ったな。『もう二度と、誰もが悲しい思いを抱かなくてすむように』と。それが自分の夢なのだと。あの時の貴様は誰よりも美しかったぞ、世辞などではない。私はその時心の底から思ったんだ――」

 微笑むヘル。その笑みはどこまでも純粋で、まるで天使か何かを思わせた。


「ああ、こいつは自分の夢が叶わないと知った時、どんな顔で泣くんだろう、って」


 浴場には沈黙が落ちた。
 彼女の言葉に対し、はやてはじっと黙したまま、ただ流れる水音だけが無為に響き渡る。
 一人、ヘルだけが楽しそうに笑い続けていた。

「十五人だ」
「……え?」

 だから唐突に紡がれたヘルの言葉は浴場の中で広く反響した。
 けれど告げられた数字の意味が解らず顔を上げるはやて。

「解るか八神はやて? これはエリューズニールで今日一日に死んだ奴等の数だ。寿命で死んだものもいるだろう。もしくは事故や事件に巻き込まれて。この寒さだ、凍死した奴もいるかもなぁ。ククク、なかには自ら死を選んだ奴もいるかもしれん」

 そこに浮かぶ表情は変わらない。
 人の死について語るヘルもまた、どこまでも楽しそうで、どこまでも無邪気で。

 まるで天使みたいだった。

「遺された奴等はきっと程度は違っても、まるで身を引き裂かれるような悲しみに襲われているんだろうなぁ。この町だけでこの数字だ、きっと世界規模でみればもっともっとこの世は悲しみで満ち溢れているぞ。なぁ八神はやて、貴様の夢や願いも虚しく、な」

 まるで芝居を演じる役者のように、淀みなく弁舌を奮うヘル。
 だが、対するはやては感情を見せることなく、ただ静かな表情でヘルを見上げるだけだ。
 そこには痛みや苦しみはない。あるとすれば諦観にも似た感情だ。

「そないな事……知っとるよ」
「…………ほう?」

 そこで初めてヘルの表情が変わる。
 笑顔から眉を上げた驚きの表情に、だ。

「別に私は神様やない。自分が救世主なんてご大層な人間やないことも、奇跡も起せへんことも知っとる」
「それはそれは……十年経って趣旨換えでもしたか、八神はやて?」
「そりゃあ困っとる人がおったら助けてやりたい思うけど、それでもどうしようもない事があることくらい解っとるよ。私ももう子供やないんやから」

 そう言って、笑みを浮かべるはやて。
 はやては知っている。十年前の自分がただの子供だった事を。

 すべてを救うだなんて、ただの戯言だ。
 いくら願った所で万能の力を持たない自分には世界を救えない。
 でも、それを知ったからこそ、変わる事ができた。

 自分ひとりで出来る事の限界を知ったから、足りない己の力を仲間達に求める事を覚えた。
 機動六課を設立し、少しでも多くの人々を救えるように努力した。
 今も自分の部隊を持つ夢を諦めてなんかいない。
 いつかきっと、自分の理想とも言える部隊を作る事が八神はやての夢だ。

 そうすればきっと、例えすべてを救う事ができなかったとしても、ほんの少しでも悲しい思いを抱くような人をなくせると信じて。
 それが、ほんの少しだけ大人になったはやての夢だ。
 だから、すべてを救えなかったとしてもそれを嘆く事なんかない――


「“だけど、貴様は傷ついている”」


 とん、と。何時の間にか目の前に現れたヘルは、はやての胸元を軽く指で突いた。
 それは毒針の一撃。
 まるで致命の一撃のように、ヘルの言葉ははやての心を抉る。

「なっ……なんでそないなこと……」
「解るさ。何故なら私は、人が傷ついてる姿がだぁい好きだからな」

 恍惚の表情で語るヘル。
 それが、彼女が見たかったもの。
 それが、彼女の求めて止まないもの。
 大好物を与えられた獣のように、ヘルは嗤っていた。

「私の話を聞いて、自分に神の如き力があれば。自分に奇跡を起こす事ができれば救えたのにと悔いているんだろう? もしかしたら今宵失われた十五の命を救えたかもしれないのに、それが出来なかった自分を恥じているんだろう?」

 それはもしもの話だ。
 そんな事は現実には起らない。救えない命は絶対に救えない。

 それでも、夢見たのだ。十年前のあの日、誓ったのだ。
 世界中の誰にも、悲しい夜が来ないように、と。

 けど。けどそれは――

「フフフ。アハハハハッ! いいなぁ八神はやて、その眼差し、その表情。ああっ、いいっ、すごくいいぞっ! やはり貴様は最高の美酒だ。こんなにも私を楽しませてくれる!」

 突きつけていた指先を引き、離れるようにして立ち上がるヘル
 惜しげもなく裸身を晒したまま、彼女は脱衣所の方へと水滴を滴らせたままぺたぺたと歩いていく。

「まぁ今宵はここまでにしておこう。私はこう見えても小食なんでな。あとはまたのお楽しみだ。明日も事件の調査を続けるんだろう? 今日楽しませてくれた礼だ、何か協力してほしい事があれば遠慮なく言うがいいさ」

 こちらに背を向けたままそれだけ言い残して、湯煙の向こうへと消えるヘル。
 はやてはその後姿を見ることなく、ただ暫らくの間水面に映る自分の姿を眺めた後、ずぶずぶと湯船に沈んでいった。

 そのまま完全に湯船の中に沈むはやて。水中から生まれた気泡だけがぶくぶくと暫らくの間水面に浮かんでは弾けて消えていく。
 だが、当然のように息が続かなかったのだろう、ぷはぁっと息を吐き、はやてが湯を割って飛び出てくる。
 水びだしになった髪が額に張り付くのもそのままに、はやては湯船の縁に頭を乗せ、天井を仰ぎながら静かに呟いた。


「ほんま……ヤな奴……」






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