魔法少女リリカルはやて テスタメント 1-10
エリューズニールのメインストリート。
左右にずらりと店舗が並び立つ朝市では商店から響く呼び込みの声と、雑踏から響く喧騒が混ざり合い、人の流れと共に活気溢れる市場を形成していた。
とはいえ、流石にミッドチルダや他の大都市と比べればその規模はささやかなものだ。
喧騒溢れる賑やかさも僅かに一本通りを外れれば商店の姿はなく、人通りも閑散としたものになる。
今、裏路地にある人影は僅かに二人分。一人はエプロン姿の大柄な女性であり、彼女は手に持った果実入りの紙袋を静かに差し出す。
「はいよ。これが今日の分だよ」
「ありがとう……ございます」
そう、小さく応えるのは毛皮の帽子をすっぽりと被った小柄な少女だ。彼女は力なく礼を述べると、そのまま紙袋を受け取る。
その時だ。見上げた少女の瞳が女性の視線と交わる。瞬間、女性の表情に明らかな怯えの色が浮かぶのが見て取れた。
少女の血のように紅い真紅の瞳を務めて視界に入れないように慌てて視界を切り、誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「す、すまないね、いつも裏に回って貰って……」
「いえ、気にしていません……」
少女もまた、そんな女性の反応に揶揄するような事もなく、ただ伏目がちに視線を下げるだけだ。
そのまま彼女はぺこりと小さく頭を下げると果物屋の店主に背を向け、人通りの少ない裏道を歩き始める。
その背後で女性店主の吐く安堵の溜息が確かに少女の耳に届いたが、振り返るような事はしない。
さくさく、と大きな紙袋を抱えたまま雪道に小さな足跡を残し歩く少女。
だが、いくらか歩みを進めた所でふと少女の表情が歪んだ。ぎゅっと胸元を抑えたまま、フラリと路地の壁に身を預け、少女はずるずるとその場に崩れ落ちていく。
「う……あ……」
苦しげな吐息が少女の口から漏れる。
抱えていた紙袋も雪道に落ち、中の果実が零れるように撒かれる。けれど、少女はそれを拾い上げる事もできず、荒く息をつくことしかできない。
「ん……? お、おい、どうした。大丈夫か?」
そこへ偶然通りがかったのだろう。壮年の男が道端で蹲る少女の姿を見て驚きの声を上げた。慌てて少女の下に駆け寄り、意識の有無を確かめるようにその肩を揺さ振る。
しかし、それがいけなかった。
壁にぶつかった衝撃で外れかかった帽子が、肩の揺れにあわせ雪道の上に落ちる。
そうして零れ落ちるのは長い長い銀の髪。その輝く色を見て、男の表情が先程とは違う驚きの色に染まった。
畏怖、と言う暗い色に。
「ぎ、銀の髪に赤目……!?」
更には少女の視界も定まらぬまま開かれた瞼の奥。真紅の瞳を見て男の表情は完全に凍りついた。
彼はまるで触れてはいけないものに触れてしまったと言うかのように掴んでいた少女の肩を振り払い、そのままじりじりと後ずさる。
そこから先の行動は素早かった。彼はすぐさま踵を返すと、そのまま脇目も振らずに駆け出していく。当然ながら救護を呼ぶためではない、ただひらすら逃げ出すために、だ。
「バ、バケモノッ……悪魔の子だっ!」
そう言って、もはや振り返る事無く走り去る男。
少女はその後姿をただ壁にもたれかかった姿勢のままぼんやりと見詰めている。
彼に対して特に思う事はなかった。
薄情だとも思わないし、非道だとも思わない。
何故ならそれが当然の反応なのだから。
そうして、人一人通らぬ雪の降り積もった道端で少女は一人壁に寄り添いながら静かに息を吐いた。
やがて、ようやく呼吸が落ち着いたのか苦悶の表情を緩めた少女は緩慢な動作で雪道に零れ落ちた果物を拾い始める。
そこへ、こちらを覆うように影が落ちた。
「大丈夫?」
投げかけられる声。
少女が見上げた先、そこに八神はやてがいた。
●
驚いた、というのがはやての率直な感情だった。
視線の先、そこには昨日出逢った――そして逢いに行かなくてはならないと決心した少女が静かにこちらを見上げている。
そこに浮かんでいる表情は大きく目を見開いた驚きのそれ。おそらく彼女にとってもこの再会は予想外の出来事だったのだろう。
けれど、それはこちらとて同様。はやては早朝から調査の為にこの近辺で起きた事件現場に赴こうとしたところ、偶然にも雪道に蹲る少女の姿を見かけたに過ぎない。
まさか、こんなタイミングで出逢うとは――というのがはやての正直な気持ちだ。
「あ……えっと、はいこれ。大丈夫、ケガとかしてへん?」
突然の再会に一瞬呆けてしまったものの、しかし流石にこの状況を見過ごす事はできない。問い掛けの言葉を先送りにし、はやては拾った果実を少女へと手渡す。
それを受け取ると少女は搾り出すような声で一言「ありがとう、ございます」と小さく呟くと、雪の上に落ちてあった帽子を乱暴に被りなおし、そのまま足早にはやての脇を通り過ぎようとする。
「あっ、ちょ、ちょお待って!」
だが、流石にここで彼女を行かせるわけにはいかない。心の準備はこちらも出来ていないが、これが千載一遇のチャンスであることに変わりはないのだ。
もちろん乱暴な真似はしない。あくまで呼びかけるだけだ。
だが、その言葉に少女は観念したのだろうか、歩みを止め、こちらへとゆっくり向き直る。
そこで、はやてはようやく正面からまっすぐ少女を見詰める事ができた。
始めの出逢いはあまりにも衝撃的過ぎて、正直な所よく覚えていない。だからこそ、あの時感じた既視感がただの記憶違いという可能性もあった。
十年前を思わせる事件の最中に、銀髪赤眼の少女を見たのだ。反射的に“彼女”の面影をそこに見たとしてもなんら不思議ではない。
だから、もしかしたらすべてははやての勘違い、かもしれないのだ。
だが、違う。
今こうして冷静に向き合っているからこそ解る。
瓜二つだ。外見年齢の違いこそあるものの、だからこそより理解する事ができる。
“彼女”がもう少し幼ければ――否。
この少女がもう少し成長すれば、きっと“彼女”そのものになるのだと。
感じるのは戦慄の思い。だが、はやてはその感情を表に出さぬように振舞う。
こちらへと振り返った少女は黙したまま語らない。じっとはやての言葉を待つように、だ。
だからはやては努めて笑みを浮かべ、
「私ははやて。えっと、八神はやてって言うんやけど……」
「……ええ、存じています。救世主さま、ですよね」
静かに紡がれる声。それはまるでこちらを拒否するかのような声音だ。
もしこの少女が本当の意味で“彼女”そのものなら、きっとこんな声は出さないだろう。
だから、彼女はきっと別人だ。どれだけ似ていようと“彼女”ではないのだ。
その事実に、落胆よりもむしろ安堵の感情を得るはやて。
「え……あ、うん。一応そういうことになっとるんやけど……」
もちろん、そんな感情をおくびにも出さずに救世主という言葉に対し、はやては曖昧に頷く。
ただ、思わず反射的に呼び止めてしまったものの、この後どうすべきかははやて自身も考えていない。彼女との再会を望んではいたものの、それはもっと然るべきタイミングで行われるべき出来事だ。けして今この瞬間ではない。
結果、場には沈黙と言う静寂だけが残る。その事実に「ど、どないしよ……」と額に汗を浮かべるはやて。
けれど、そんな静謐な空気を割ったのははやてではなく、
「ナハト」
ナハト、と自ら名乗った少女の方だった。
だが、“その名前を予め知っていたにも関わらず”あまりにも彼女の言葉が予想外だったはやては告げられた言葉の意味が理解できず、首を傾げる。
「……え?」
「ナハト・エスパーダ、です。私の、名前」
ほんの僅かだけ、語尾を強めにして告げるナハト。表情はあまり変わらないがどこかムキになっているように感じなくもない。
予想外、とも言えるそんな彼女の反応に、はやては僅かな驚きを得る。
「そ、そっか……えっと、ナハトって呼んでもええ?」
「……どうぞお好きなように。私に許可をとる必要はありません」
どこか不機嫌そうに視線を逸らしながら告げるナハト。そのまま彼女は再度はやてに背を向けるとそのままスタスタと歩き去っていく。
それだけ告げると、視線を外すとそのまま踵を返し、歩き始めるナハト。
「わ……あ、ちょ、ちょい待ってっ」
二度目の制止を求める言葉。けれど今度こそナハトはこちらに背を向けたまま振り返ることなく歩いていく。さすがにここで見失うわけにはいかないと、慌ててその跡を追うはやて。
ナハトと一定の距離を置きながら、歩くはやてはその小さな背中を見詰めながらこの後どうするべきかを思案する。
可能であるならばもう少しコンタクトを取りたいところだが、もはやナハトも足を止めるつもりはないらしい。とはいえ他人の空似というだけで強引な手段をとるわけにもいかない。なら――、
そんな堂々巡りを繰り返しながら数歩進んだ時だった。
はやての視線の先で、ナハトが倒れた。
それも崩れ落ちるようにではなく、前のめりにダイブするように、だ。
「…………へ?」
一瞬何が起きたのか理解する事ができない。だが、裏通りとはいえ雪道のど真ん中でうつ伏せのまま倒れ伏すナハトの姿にはやては反射的に動いた。
「ちょ、ナ、ナハトッ!? なんでいきなりっ!?」
膝を付き、倒れたままのナハトの肩を衝撃を与えないように留意しつつ揺するはやて。
しかしナハトは微動だにしない。
ただ、返事は意外な所から返ってきた。
それは「きゅるるるる」と弱った飛竜が鳴くような音。
「…………は?」
どこかで聞いた事のあるその音を耳にしたはやては呆然と口を大きく空ける。
思いの他大きく響いた音。その正体はナハトの小さなお腹から盛大に鳴り響いていた。
「…………お腹が、空きました」
くるり、とうつ伏せに倒れたまま首だけを動かし、こちらへと視線を向けたナハトは、はやてを見詰めたまま静かに呟いた。
再びお腹の虫が大きな音を響かせた。
●
「ナハト・エスパーダ」
「…………は?」
時刻は二時間ほど前へと戻る。
朝食、というには些か豪勢にすぎる料理の数々が並んだ食卓を前にどう処理すべきかを思い悩んでいたはやては、唐突にヘルから紡がれたその声に顔を上げた。
視界にあるのはダイニング、という言葉からはあまり連想する事が出来ぬほど、広く巨大で絢爛華美な様相の一室と、上座に堂々と座すヘル。そしてその両脇にならんで人形のように瞼を閉じて微動だにしないメイドが二人。
ここはどこの異世界だ、と己の感覚に問うなか、ヘルは血の滴るやたらと分厚いステーキの切れ端を口に運びながら言葉を続ける。
ちなみに改めて言うが、これは朝食の風景である。
「だから、貴様が逢った銀髪赤眼の女の事だ。なんだ? もしかしてまだ逢っていないのか?」
まるで世間話をするかのような気軽さで問いかけてくるヘル。だが、はやてはその問い掛けに同様を隠せずにいた。
彼女の言うように、はやては既にナハトと一度邂逅している。
けれど、はやてはその事実を未だに誰にも――守護騎士達相手にさえ伝えていない。
だからこそ、疑問は自然と口をついて出る。
「なんで……アンタがそれを……?」
「何故? 面白い事を聞くなぁ八神はやて。私は元とはいえこの国を統べる王族だぞ? この世界に住む奴等のことなど、何一つ知らんし興味などない」
何一つ論理的ではないセリフだと言うのに、無駄に力強く告げるヘル。内容をよく吟味せずに聞いていれば思わず錯覚してしまいそうになるくらいの堂々とした態度だ。
そんな彼女を半目で呆れたように眺めるはやて。
ヘルは口の中に含んだ肉片を丁寧に咀嚼してから飲み込むと、血の付いたナイフの切っ先をこちらへと突きつけ言葉を続ける。
「だがなぁ、貴様が興味を示しそうな奴を調べるくらいの権力は私にはあるさ。よぅく似ていただろう? 貴様のだぁいすきだったお人形と」
そう、楽しそうに微笑むヘル。
そんな彼女に何を言っても無駄と悟っているのだろう。どこか達観した様子でテーブルに頬杖をついたはやては、不機嫌そうに黙々とサラダを口に運ぶことに集中する。
けれど、ヘルはこちらの反応など気にすることなくテーブルの上に乗りあがると、そのまま四つんばいの姿勢でこちらへと邪魔な食器類を蹴散らしつつにじり寄ってくる。その衝撃によってテーブル上の豪勢な朝食と高価そうな食器類が無造作にぶちまけられ、がっしゃんがっしゃんばりばりと派手な音を立てた。
行儀が悪い、などというレベルではなくもう滅茶苦茶である。控えていたメイド二人が無表情のまま音も立てずに後片付けを始めるなか、ヘルは当然のように気にすることなくどこからか取り出した書類束をひらひらと見せびらかせ、
「そこでだ、ここには調べられる限りの奴のプロフィールがある。どうだ? 聞きたいか? 聞きたくないか?」
へらへらと笑いながらこちらに選択権を寄越してくるヘル。
はやては唯一手にとって無事だったサラダボウルから取り出した野菜をもぐもぐと噛み締めつつ考える。
どうすればこの天上天下唯我独尊女を大人しくさせる事ができるのか。
暫らく考えた末、はやてはにっこりと優しい微笑を浮かべる事にした。そうして優しい声音で紡がれるのは、
「ええなぁそれ。よかったら是非聞かせてくれへんか?」
「……ぷっ、くっ……ふはははっ。いいなぁ八神はやて。その返答はすごくステキだぞ。だから貴様はこんなにも愛おしい。よぉしでは、お望みどおり聞かせてやろう」
はやての言葉を聞いたヘルは、心の底から機嫌良さそうに笑い、そのままノリノリで書類を捲る。
そんなヘルをはやてはジト目で睨みすえ、
「アンタ……私が聞きとうないって言ったらどうするつもりやった?」
「ハァ? おかしなことを聞くなぁ八神はやて? 嫌がる貴様に無理矢理聞かせていたに決まっているだろう?」
からかっている様子も見せずに心の底から不思議そうに応えるヘル。
半ば予想していた答えではあるが、本当に腹立たしい事この上ない。目の前の女はこちらの事などお構い無しに、ただひたすら呼吸をするように人に嫌がらせをする変人だ。
はやてのささやかに過ぎる反抗は、これが理解する事も、御する事も到底不可能だ、という事を改めて思い知らされる結果に終わった。
「なぁ八神はやて。よぅく考えろよ。私が友である貴様の嫌がることをしないワケがないだろう?」
「普通、友達は相手の嫌がることをせぇへんもんなんやけどなぁ……」
「ハァ? おかしなことを言うなぁ、なんだそれは? 酷い友人関係があったものだ。新手のイジメか何かか? おいおい八神はやて、困った事があったら遠慮なく私に言えよ、何時でも相談にのるぞ」
「いや、もうええ。アンタになに言っても無駄やって事を再確認できただけや」
理解できない、と言いたげに首を傾げるヘル。そんな彼女の態度に、はやては大きく肩を落とし、諦めたように溜息をつく。
だがヘルは気にした様子もなく肩を楽しげに揺らしながら鼻歌交じりに書類を捲る。
「ふふん。ナハト・エスパーダ……正真正銘この国の住人だな。戸籍もちゃんとある。新暦六十五年に開拓民の娘として生まれ、貧しいながらも家族仲良く暮らしているみたいだなぁ」
まるでお気に入りの絵本を親に読み聞かせる子供のように嬉々とした様子で言葉を紡ぐヘル。それを止められぬと知っているはやては、ならべく気にせぬようにと朝食を続ける。
「ただし、十年前までは。だがな」
けれど、その一言にはやての手の動きが止まった。
十年前。忘れられるわけがない。それははやてが始めてこの地を訪れた時期であり、あの大きな事件が起きた年だ。
「ハハハ、これは驚いたなぁ。この娘の親はあのユグドラシル事件の最中に命を落としたそうだ。これは傑作だなぁ! なぁ見ろよ八神はやて。貴様が必死に世界を救おうとしてた間にこいつらは死んでしまってたみたいだぞ! ツイてない奴等だなぁ!」
腹の底から可笑しくて仕方ない、とでも言うかのように呵々と笑うヘル。
だが彼女は動きを止めたはやてに気づくと、笑みを引っ込め、慈しむような眼差しで案じるように言葉を紡ぐ。その切替の速さはまるで一流の役者かなにかのように――うそ臭い。
「ああ、八神はやて。貴様が気に病む必要などないのだぞ? おまえは悪くない。なんにも悪くなんかないさ。貴様はあの時世界を救うので忙しかったからなぁ。人命のひとつやふたつ程度見過ごしたって気に病む必要なんか無い。ああそうさ、仕方ないよなぁ。どうしようもなかったもんなぁ」
はやてに同情するように、優しく優しく言葉を紡ぐヘル。
彼女の言うとおり、それはけしてはやての所為などではない。あの事件はあまりにも巨大で、はやて一人にできることなんてそれこそほんの些細な事なのだ。
八神はやては救世主なんかじゃない。
それでも、ヘルの言葉は的確にはやての心を抉っていた。
「……よくもまぁ、そこまで的確に人の傷口を抉れるもんやなぁ」
「ん……なんだ突然。いきなりそんなこと言われてもだな……その、照れるじゃないか。あんまり褒めるなよ」
何故か頬を紅く染め、照れくさそうに頬を掻くヘル。
その様を見て「ダメだ、嫌味も通じない……」とはやては暗澹たる気持ちになる。
けれど照れつつも書類を捲った所でヘルの表情に変化があった。「ふぅん」と面白そうに鼻を鳴らし紙面に書かれている情報に視線を走らせる。
その反応から見て、ナハトについて調査させたヘル自身にとっても資料の中身を見るのは初めてなのだろう。
「これはこれは……見てみろ、八神はやて。中々に面白いぞ」
パチン、とヘルの指が鳴らされる。それを合図に食卓の上に開くウインドウ。そこに映っているのは、とある家族のポートレートだった。
二人の男女が共に浮かぶ表情は慈しみに溢れた笑顔。その視線の先には女性に抱かれた幼子の姿がある。
おそらくはそれがナハトと、その家族の肖像なのだろう。
だが、
「…………黒い?」
写真に写る幼子――ナハトの髪は墨を流したような黒。開かれた目の色も同様だ。
見れば両親も共に黒髪黒眼。この世界では比較的ポピュラーな色彩だ。
その中には銀の髪も、赤い瞳もない。初めてナハトと出逢った時に感じた既視感も皆無だ。
今のナハトと比べれば、もはや完全に別人にしか見えない。
だが、ヘルがこうして見せてきた以上、それが何かの間違いで混ざった写真とは思えない。きっと正真正銘、この幼子が――少なくとも戸籍上は――ナハト本人なのだろう。
「両親を失うその前日まで、黒かったみたいだな。覚えているか八神はやて。テロリスト共の放った広域殲滅魔法が市街地の一角を吹き飛ばした光景を。まったく不幸極まりない事にコイツはあの時ちょうど被災区画のど真ん中にいたみたいだな。ああ勿論、両親共々……な」
覚えている。忘れられるわけがない、ユグドラシルによって増幅された魔力の奔流が大地を焼き払った光景を。
自分は救世主などではない。あの日あの時、救えなかった多くの人々がいるのだ。
「コイツはその被災区画唯一の生き残りだ。まったくおかしな話だよなぁ。あの時放たれた魔法は鉄すら溶かすような熱量で大地を焼き払った。到底人類が生き残れるような環境ではない筈なのに……コイツだけが生きていた。銀の髪と赤い瞳のバケモノみたいなナリになってな」
まるで可笑しな冗談でも聞いたかのように、くつくつと肩を揺らすヘル。
「救助……ああいやこの場合は回収に向かった部隊はそこで消し炭になった町並みのど真ん中で、無傷で立ち尽くす不気味な少女を見たそうだ。泣きも喚きもせず、ただ空を見上げる幼い子供を、な」
焼け焦げた大地と、舞い上がる灰の中、たった一人取り残されてしまった少女。
いったい彼女は、空を見上げ、何を思ったのか。
「なぁ八神はやて。教えてくれよ、コイツはいったい、何を見たんだろうなぁ?」
その答えを、はやては永遠に応えられそうになかった。
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