魔法少女リリカルはやて テスタメント 1-11


「いきなり倒れるから何事か思うたわ……」

 天井を仰ぎ見るように背もたれに身を預け、はやては深い安堵の溜息をついた。
 木造の長椅子が等間隔に並ぶ空間、質素ではあるがどこか神々しい雰囲気を感じさせるこの場所は、先日祝福の儀式が行われていた例の教会。

 そして、はやてとナハトが初めて邂逅した場所でもある。

 今日は儀式やミサなどは行われる予定は無いのか、教会内には参拝者を含め人影は無い。
 常駐している神父も先程、身体を休める為に場所を貸して欲しいというこちらのお願いに鷹揚に頷いてくれた後は気を利かせてか奥の部屋へと引きあげていた。
 故に、今この場にいるのははやて――と、長椅子に並んで座るナハトの二人だけ。

 流石に道の真ん中で倒れたナハトをそのままにするわけにも行かず、はやては彼女を抱え、なんとか休憩できる場所――見覚えのあるこの教会まで運んできたというのがここまでの経緯だ。
 はやてが視線を隣に落とすと、そこではナハトが両手でリンゴを掲げ持ち、小さな口で齧ろうとした瞬間だった。

「えっと、その……ご迷惑をお掛けしました…」

 こちらの視線に気づいたのか、ナハトは動きを止めると、はやての方に向き直りペコリと頭を下げる。
 そのまま彼女は「何かお礼できるものは」と呟きながら傍らに置いてある紙袋を覗きこむが、その中には既に芯だけとなったリンゴが大量に眠っているだけだ。

 ちなみに芯以外はすべてナハトが食べつくしてしまっていた。
 どうやらお腹が減ったという彼女の言は真実のようだが、その健啖っぷりに先程まではやても驚きを隠せずにいた。
 そんなわけで、綺麗なまま残っているリンゴは今ナハトが大事そうに抱えている一つだけ。
 ナハトは手に持ったリンゴをじっと、ひたすらにじっと見詰める。無言ではあったが、その真剣な眼差しが何か必死に思い悩んでいる心象をありありと物語っていた。

「いや、ええよ。別に今お腹空いてへんから……」
「そう、ですか……」

 流石に気の毒になって、気を遣うはやて。
 その言にナハトは特に喜ぶ様子を見せる事は無かったが、許可を得ると同時に躊躇なくリンゴを齧るナハト。

 そんな様子を見ながらはやては「リンゴが好きなんやろうか」と益体もない事を考える。
 ぼんやりとナハトの姿を見詰める。そうすると我知らず視界を奪われるのはやはり銀に輝くその長い髪だ。

「この髪の色が、気になりますか?」

 気づけば、最後のリンゴを咀嚼し終えていたナハトがそう尋ねていた。
 突然の問い掛けに一瞬虚を突かれはしたが、それでもはやては偽ることなく反射的に言葉を返す。

「え? あ、まぁ、気にならへんって言ったら嘘になるけど……」

 ニブルヘイムの人々は主に北欧系の顔立ちをしているが髪や目の色は黒か茶色が殆どだ。
 その性質上、ニブルヘイムでは染髪技術などと言った普段の生活と縁が薄い技術は発達していない所為だろう、街中を見渡しても銀髪赤眼の彼女はひどく目立つ。

「これは、悪魔の印だそうです」
「…………」
「その昔、この世界には銀髪赤眼の悪魔が跋扈し、この地を荒らし回っていた――そんな言い伝えがあります」

 この世界が年中雪と氷に覆われているのは、そんな悪魔達の仕業なのだとナハトは語る。
 ニブルヘイムは高度な魔法技術によって支えられてきた世界だ。

 反面、機械技術や科学技術は水準を大きく下回っており、管理世界に組み込まれるまでは中世ヨーロッパ程度の技術力しかなかったらしい。
 管理局の技術供与により大きな進化を遂げる事に成功したが、未だにその生活水準は管理世界全体から見れば低い部類に入るだろう。
 だからこそこの国の人々の信仰心は高く、逆説的に言えば民間に伝わる言い伝えや伝承と言ったものを本気で信じている人もまた少なくない。

「だから、その言い伝えを信じる人にとって、私は悪魔の子なんだそうです。ですので私と一緒にいると、この町の人はあまり良い顔はしません」

 暗に、自分に関わるなと忠告してくるナハト。
 その言葉をはやては怒るでもなく嘆くでもなく静かに聞いていた。
 胸の中で強く燻る想いが無かったわけではない。ただ、今それを発散した所で救われるものはいないのだ。

「そっか……でも、私はナハトの髪、好きやで。きらきらしてて綺麗やと思う」
「そうですか……私には、よく解りません」

 自分の長い髪を掬い、煌くそれを無表情に見詰めるナハト。
 それを見たはやては、長椅子から立ち上がりうーんと身体を伸ばし、凝りを解すと、

「さてと……じゃあナハトも食べ終わったみたいやし、そろそろ行こっか」
「……はい。助けていただいてありがとうございました。このお礼はいつか必ず」

 長椅子に座ったまま、ぺこりと小さく頭を下げるナハト。
 そんな彼女に、はやては笑みを見せ、

「なに言っとるん? ほら、はよ行くで」
「……? えっと、あの……?」

 はやての言葉の意味を理解できず、戸惑いの表情を見せるナハト。
 しかし、それに構うことなくはやてはナハトへとまっすぐ手を差し伸べる。その手に握られているのは紙袋と一緒に傍らに置かれてあったナハトの帽子だ。

「お礼、してくれるんやろ。やったら私とのデート一回。ちゃんとエスコートして貰うでー」
「デー、ト? それは一体どんな事を……?」

 デート、という単語をそもそも知らないのだろう。目の前に差し出された帽子を見詰めながら首を傾げるナハト。

「やから、一緒に出掛けて町を案内して欲しいんよ。この辺りの事、詳しいんやろ?」
「ですが、私と一緒にいると貴方に迷惑が……んっ!」

 ナハトが言いかけた言葉を、彼女に帽子を無理矢理被せることで黙らせるはやて。

「大丈夫やって。私もあんまり顔を見られとうない立場やしな。一緒にお忍びデートって事で」

 片目を瞑り、イタズラを思いついた子供のような笑みを浮かべ、ナハトへと手を差し出すはやて。
 ナハトははやてのそんな行動に、一瞬だけ躊躇ったものの、結局はおずおずとその手を握り返す。
 その手を握り返し、強く手を引くはやて。その視線は最早ナハトではなく遠く教会の出口へと向いている。

「よっしゃ、それじゃあどこに行こっか。ゆっくりできるとこがえーなー」
「あ、あの……救世主さま……」

 いまだ戸惑いを隠せぬままはやての背に向けてナハトは声を投げかける。
 その言葉に、しかしはやては振り返らぬまま一言。

「はやて」
「……え?」
「せやから、はやてって呼んで欲しいなぁ、って。私もナハトって呼んどるし、ほら、救世主サマってなんや他人行儀な呼び方やん」

 はやての言葉に、けれどナハトは申し訳なさそうに視線を逸らす。

「ですが……そんな不敬なこと……」
「不敬って、おかしなこと言うなぁナハト」

 澄んだ笑い声をあげるはやて。ゆっくりと振り返った彼女の顔には満面の笑顔が浮かんおり、

「友達なんやからそないなこと気にせんでええんよ」
「とも……だち……?」
「そ。ん? あ、あれ、もしかしてナハト、私みたいなんと友達になるんイヤやった? せやったら私も、そ、その、無理強いしたりせぇへんけど……」

 一転、今にも泣き出しそうな顔で狼狽するはやて。それは演技ではなく、本当に不安を貼り付けたような表情だ。
 まるで感情豊かな子供のように、ころころと表情を変えるはやてに、ナハトは慌てた様子で首を横に振るった。

「や、やじゃないです! え、えっと……その……」

 ぎゅっとはやての手を握り返すナハト。
 僅かにその頬を染め、恥ずかしそうに彼女は呟いた。

「はや……て……」





「ひゃあー! すっごいいい景色やなー」

 一面の銀世界に、はやての喚声が響いた。
 ここはエリューズニール郊外にある高台。周囲には人工物の類はなくただただ穢れの無い白の絨毯が延々と敷かれている。
 その先、崖となっている高台の舳先にはやてとナハトの姿があった。

 人の手が入っていない為、転落防止の柵などは無いが、その代わりにそこからの眺めは正に絶景だ。
 天気は快晴。空には抜けるような蒼穹の空が広がっており、眼下に広がるのはどこまでも広がる白銀の世界だ。

 その中央には円形の囲いに覆われたエリューズニールの町並みが見える。
 背の高い建物が無いので、それほど高さの無いこの場所からでもその全体像をありありと観察する事ができた。
 そして最後に視線の先、その遥か向こう側。空気が乾燥している為に、遥か極北の地から伸びる、天を貫く巨大な大樹の姿も今日ははっきりと見て取れた。

「ユグドラシル……か。相変わらずでっかいなぁ……」

 感心したように呟くはやて。一昨日この地に訪れてからは天気が悪かった為、その姿を拝むことは出来なかったが、十年ぶりに見たその巨大な大樹の圧倒的なスケールにはやては感嘆の溜息を漏らす。

 世界樹ユグドラシル。
 それはニブルヘイムの北極点に存在する超大型魔力炉の名だ。

 外観は文字通り巨大な大樹の姿をしているが、その正体は古代ベルカ以前に創られたと言われている古代遺物の一つだ。
 ニブルヘイム王の血脈に代々受け継がれていたこの古代遺物は惑星改造型魔力機関としての特性を持っており、本来ならば人の住む事ができない過酷な環境のニブルヘイムの地は、この古代遺物による恩恵によってなんとか人類が生存可能な状態になっているのだ。

 けれど、この古代遺物が果たしてどのような原理で稼動しているのか、実は未だに解明されていない。管理世界の技術の全てを結集してもここまで大規模な惑星改造はできない完全なロストテクノロジーなのだ。
 当然ながら、その管理制御を正常に行う方法も定かではない。十年前起きた事件では完全な暴走状態に陥り、この世界そのものを破滅させかけた事さえある危険極まりない古代遺物なのだ。

 だが、例え世界を滅ぼす危険性を有していたとしても、このニブルヘイムはそもそもユグドラシルが無ければ生存も不可能な過酷な大地なのだ。例え極寒の世界だとしてもユグドラシルの恩恵によりこの地に生きられるニブルヘイムの人々にとってあの巨大な世界樹は信仰の対象として長く崇められてきたのだ。

「……ん? なぁナハト。あっちの丘の上にあるでっかいお城ってなんか解る?」

 そこでふと目に入った光景。
 市街地からでは死角となって解りにくかったが、エリューズニール全景を見渡せるこの場所からは、町の東側にある丘の上に大きな城が建てられているのが見えた。西端にははやてが逗留しているヘルの館があるがそれよりもなお巨大だ。

「あれは……先代の炎王――ニブルヘイム王が立てられた城です。ただ先代が崩御なされた際にヘル様が委棄なされて以来、無人の廃墟となっています……確か、二十年ほど前の事だったかと」
「二十年前って……ホントにあいつ何歳やねん……」

 未だに見た目が完全に幼女のままのヘルの姿を思い返し、げんなりとするはやて。

「にしても、なんであんなに立派なお城を持ってんのに、わざわざあんな屋敷に住んどるんやろ……?」
「なんでも先代の王の死を悼み、あの城を墓標としたのではないかと言われてますが……」
「…………」

 本当にそんな真っ当な理由なんだろうか。
 ヘルの事だ。何か裏がありそうな気がして仕方ない。
 もしくは非常にどうでもいい事かのどちらかだ。
 額に眉根を寄せ、難しい表情で思案するはやて。そこに強い風が下から吹き上げてきた。

「……吹きっ晒しやとやっぱ冷えるなぁ。ナハトは寒うない?」
「えっと……はい、大丈夫です」

 首を竦める様にして、寒さを凌ぐはやて。対して、ナハトは存外に平気そうな様子だ。こういう部分はやはり地元の人間という事なのだろうか。
 震える身を自分で抱えつつ、はやては残念そうに、

「うう、しかし流石に冷え込むなぁ。こんな時にザフィーラがおればあったかなんやけどなぁ」
「ザフィー、ラ?」

 聞きなれない単語に対し、鸚鵡返しに尋ね返してくるナハト。
 それなりに好奇心が湧くのだろうか、どうやらナハトは知らない単語を尋ね返す癖があるようで、そんなちょっとした仕草にはやては笑みを浮かべる。

「そ、ザフィーラ。私の大切な家族で、こーんなおっきいワンコなんやで。毛がふっさふさやから、ぎゅーって抱きしめるとすごく暖かいねん」

 はやては身振り手振りを加え、ややオーバーアクション気味に説明する。
 そんな彼女の言葉に、ナハトは気持ち興味深げな眼差しを見せたまま尋ねる。

「大切な……家族?」
「うん、そやでー。あ、ザフィーラ意外にもウチは大所帯やから、いっぱい家族がいるんやよー」

 そう言って、はやては大切な家族の名前を指折り数えながら告げていく。

「シグナムにシャマル、ヴィータとリインにアギト……みんな私の自慢の家族や」
「大家族、なんですね」
「あはは、せやね。なんや気づいたらこんなにいっぱい家族ができとったわ」

 本当に気づけば、だ。十三年前のあの頃、一人ぼっちだった頃の自分はこんな風になるなんてきっと思ってもいなかっただろう。

「シグナム達は一緒にこの世界に来とるし、今度みんなにナハトの事も紹介するな。きっと、ええ友達になれる思うで」
「それは……そう、ですね、お友達になれたら、とても素敵だと思います」

 目を伏せ、少し悲しそうに呟くナハト。
 しかしはやてはあえてそんな彼女の反応に触れぬまま、会話を続ける。

「ただリインとアギトは残念やけど、ミッドチルダでお留守番やからすぐには逢えへんなー」

 そう、少し残念そうに呟くはやて。
 今頃アギトは研修のためにミッドチルダ地上部隊――ギンガのところへ。リインフォースツヴァイはとある新型術式開発の為に、本局でマリーの調整を受けている所だろう。
 彼女達がこの世界へ来ていないのは、もちろん、そういった事情があったからこそだが、今回の事件にかつての闇の書事件を知らない二人を巻き込まないようにと最終的に配慮したのははやて自身だ。

 だからこそ、今この世界には自分と守護騎士達――かつて闇の書事件に深く関わった者だけが集っている。それははやて自身が望んだ事だが、それでも今この場にあの二人が居ない事をほんの少し寂しく思う気持ちがはやてにはあった。

「それと、もう一人」
「もう一人?」

 そのまま彼女は空を見上げ、もう一人の家族の事を思い返す。
 とても大切な、家族の事を。

「うん。その子はな、すごく、すごーく遠いとこに行ってもうてん。せやからたぶん、もう二逢う事はできへんやろーな」
「それは、寂しく……ないですか?」
「寂しい、な。すごくすごく寂しいなぁ。もういっぺんだけでええから、逢いたいなて今もずっと思うてるしな」

 それでも、と呟くはやて。

「もう逢えへんかったとしても、その子は私の大切な家族の一人やねん」

 改めて感じる。
 確かにナハトは“彼女”と瓜二つではある。

 けれど、だからこそ感じる。彼女達二人は別人だという事。そして“彼女”にはもう二度と再会できないという事を。
 だが、その事実に深い悲しみは生まれなかった。
 それでもなお、“彼女”が自分にくれたものが色褪せる事はなかったから。

「なぁ、ナハト」
「……なんでしょう?」

 首を傾げるナハト。
 そんな彼女にはやては気負った様子もなく告げる。

「よかったら、あんたも私等の家族になれへんか?」
「…………」
「いきなりやし、すぐに私のこと信用せぇ言うても無理やろうな。せやから、今すぐに答えを出す必要は無い」

 視線は空に向けたまま、無言のままのナハトに語り聞かせるように告げるはやて。

「けど、どうしようもなくなった時や逃げ出しとうなった時……私等は、ううん。少なくとも私はナハトの味方やってこと覚えておいて欲しいねん」

 両親を失い、町の人々からも悪魔の子と敬遠されるナハト。
 そんな彼女の境遇を理解できるわけがない。両親を失う悲しみを知っていたとしても、自分と彼女もまた別人なのだ。
 だけど。だからこそ、ほんの少しでもナハトの支えになりたいとはやては思う。

「ありがとうございます、はやて」

 けれど、ナハトはその一言と共に、一歩だけはやてとの距離を置き、深く静かに頭を下げた。
 それは否定を示す行動だ。けれど彼女のそんな反応をはやては素直に受け入れる。

「でも、大丈夫。貴方に家族が居るように、私にも……家族がいます。本当に、大切な家族が」
「そっか……なら、よかったわ」

 彼女の言葉が真実かどうかは解らない。少なくとも、彼女の両親は十年前の事件でその命を失っている筈なのだ。
 けれど、はやては彼女の言葉に素直に頷いた。まるで始めから彼女がその選択肢を選ぶと知っていたかのように。

「そろそろ帰ります」

 静かに告げられる別れの言葉。もう一度、頭を下げると踵を返し、急ぎこの場を去ろうとする。まるで何かから逃げるように、だ。

「そーか……気ぃつけて帰るんやで」

 送っていこう、とは言わなかった。こちらに背を向け去っていくナハトがそれを望んでいない事をはやてもまた理解していたからだ。
 だから、最後にはやてはその背中に向けて、大きく叫ぶ。

「さっきの言葉は嘘やないからな。別に家族になるならんとかは気にせんでええ、困った事があったり、辛い事があったら何時でも私に言い」

 投げかけられたはやての言葉。背を向けたままその言葉を受け止めたナハトは僅かに歩みを止める。

「――そん時は、絶対に助けたるから」

 その言葉が届いたのか届かなかったのか、結局ナハトはこちらに振り返ることなく歩みを再会し、帰路へと付いていった。
 白い雪に埋もれた丘の上。はやてはその姿が見えなくなるまで、その場でナハトのことをずっと見送っていた。




「ここが、昨日起きたばっかの事件現場、か……」

 紡がれた言葉は強く吹く風の音に攫われ、刹那の間に消えていった。
 ナハトと別れてから暫らく、八神はやてはエリューズニールの町から少し離れたこの何も無い雪原に佇んでいた。

 時刻は夕刻。しかしほんの数時間前までは雲ひとつ無い晴天だった筈の空は厚い雲に覆われひらひらと薄雪を落とし始めていた。
 空に夕焼けの色は無く、ただ暗い闇の色が空には広がっている。
 吹く風は冷たく強く、この場にいる者を心身ともに凍てつかせようとしていた。

 その中でたった一人、雪原に膝を落とすはやて。
 指先の触れる大地、そこに感じるのは大気に散った魔力の残滓だ。

 ここは昨日、諍いを起したばかりのバスカルの率いるフェンリル騎士団の一小隊が正体不明の集団に襲われた現場だった。
 はやてがその事実を知ったのは今朝。例によって楽しそうに語るヘルからの情報提供によるものだ。その事実にははやても些かの驚きを禁じえなかった。

 被害は隊長のバスカルを除いて三名がリンカーコアより魔力を抜かれ意識不明の重体。バスカル自身もかなりの重傷を負ったという。
 正直な所、彼等はけして好きになれるような相手ではないが、それでも死者が出なかった事に安堵の吐息を漏らすはやて。

 同時に、犯人をはやく捕まえねば、という焦燥にも似た想いが胸の内に燻る。

「とはいえ、さすがに証拠になりそうなもんは何も残っとらん……か」

 小さな吐息と共に諦めたように呟くはやて。昨夜行われた戦闘の痕跡は降り積もった雪によって覆い隠されている。
 ここから犯人に繋がる手がかりを見つけるのは至難の業だろう。少なくともはやて一人でどうにかできる代物ではない。

「フェンリル騎士団側も今回の事件を解決しようと躍起になってるみたいやし……もうあまり時間はないかもしれへんな」

 これ以上、この場で調査する事を諦め立ち上がるはやて。
 気づけば雲の狭間から覗く淡い夕日の輝きさえも稜線の向こうに消えようとしていた。
 本格的に夜を迎えれば、この辺りはそれこそ一面の闇に包まれる。できればその前に調査を終え、引上げなければならない。

『みんなー、調子はどないやー? もう遅い時間やし、そろそろヘルん家に戻ろっかー』

 今この瞬間も別の場所で調査を続けているであろう守護騎士達に向けて思念通話を送るはやて。
 個別に行動をとっている以上、現場から引上げるタイミングはそれぞれの裁量に任せてあるが、はやてが声を掛けなければ彼女達はきっといつまでも働き続けてしまうだろう。

 心配性な彼女達のことだ。きっと今もはやてからの連絡を心待ちにしているに違いない。
 だが、

『…………みんな?』

 返事がない。
 何時もならばすぐにでも何かしらの返答がある筈なのに、守護騎士達の誰からも。
 それは八神はやてにとってあまりにも大きな違和感だ。

「あ、あの……ごっ、ごめんなさい」

 だから。
 背後から放たれたその声に、はやては表情を緊の一字に引き締め振り返った。
 視線の先、そこに居たのは一人の幼い少女だった。
 昼間にあったナハトよりも歳若く、どこか怯えた様子を見せる女の子だ。

「……おじょーちゃん、何もんや」

 だが、エリューズニールより離れたこの郊外の地に、幼い少女が一人いる。その事実にはやては警戒を強める。
 対し、謎の少女はこちらの詰問の声に「ひぃ」と詰まったような叫びをあげると、瞳に涙を浮かべたまま怯えたように後退さる。

「や……やぁ、な、なんだよ。ボ、ボクまだ何もしてないよ」

 小動物のように震え縮こまる少女。傍目から見ればその見た目も相まってどう見てもはやてが幼い少女を苛めているようにしか見えない。
 そんな少女の反応に、思わず毒気を抜かれたはやては、しかし緊張を解かぬまま少女に尋ねる。

「あ……驚かしてもうたか。ごめんなぁ……え、えっと、おじょーちゃん、お名前は?」

 出来るだけ刺激しないようにと優しく尋ねるはやて。
 すると少女は鼻を啜りながら「プ……プリメラ」とだけ応えた。

「そっか、プリメラか……えーっと、私は」
「し、知ってるよ!」

 こちらから名乗ろうとしたはやてを制し、告げるプリメラ。
 それは何かを確かめるような声。

「はやて。八神はやて……だよね」

 告げられたその名に、はやては再度警戒を強める。
 この世界で様々な呼び名を持っているはやて。
 八神、ハシン、救世主――だが、彼女を「はやて」と呼ぶのは二人しかいない。
 ヘルと、そしてナハトだけだ。この二人だけだ。

「ボク、痛いのも怖いのもヤなんだよ? けど、けど……」

 うう、と涙を零すプリメラ。
 同時に、その右手には何時の間にか巨大な斧が握られていた。

 プリメラの身長ほどもある、巨大斧型のデバイス。
 それを片手で悠々と振り回すと、プリメラはその切っ先をはやてへと突きつけた。

「こんなことホントはしたくないから……だから、大人しくしてよ。はやて」

 夕日が完全に稜線の向こうへと落ち、世界が変質する。
 雪と氷に覆われた白色の世界から、夜の闇が支配する黒へ。

 歪む景色は、自身がここより位相のずれた結界に飲み込まれた事を意味していた。



 ――君に胸いっぱいの祝福と、ほんの僅かな災いを 了



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