歩くような速さで


※このSSを読む前の注意事項

 こちらのSSに年齢制限はございませんが若干性的な描写が含まれております。
 そういったものが不快に感じられる方はお戻りくださいますようお願いいたします。


 ●



 遠雷の音がこの場所にまで響いていた。
 降り止まぬ雨が古い洞窟の天井を打ち、まるで打楽器を打ち鳴らすような連続する音楽が流れる。
 視界に広がるのは雨雲に覆われた灰色の空と静まり返った深い森だけだ。
 その光景はまるで自分の心象を現しているかのようだと僕――エリオ・モンディアルはなんとなく思った。
 気分が滅入っているのはなにもフィールドワーク中に突然の雨に襲われ、こうして雨宿りをする羽目になったことじゃあない。
 自然保護隊に希望転属して数年、雨に打たれることなんて日常茶飯事だったし、もっと酷い災害をこの目で見たこともある。
 だから、今のこの状況はどう考えてもいつものことでしかない。
 勿論、雨に打たれて心晴れやかな人間は少ないだろうけど、反対にここまでネガティブな感情を持つ僕も珍しいだろう。
 もう一度、大きく溜息をつく。
 いまはただ、雨が早くやんでくれることを僕は切実に願っていた。
 そんな風にぼんやりと考えていたからか、それとも激しい雨音の所為か、僕ははじめ、その声を聞き取ることが出来なかった。
「エリオ君? 大丈夫」
 気づけば耳元で囁かれる声。僕はみっともなく壁に張り付くように仰け反り、声の主の方へと視線を向けた。
 そこには不思議そうな表情でこちらを見詰めているキャロの姿が驚くほど近くにあった。
「どうしたの、エリオ君?」
「あ、いや……ごめん、なんでもない、ちょっとボーっとしちゃってた」
 その視線が、いやキャロを見る僕の視線そのものが怖くてわざと首を洞窟の外へと向ける。
「ええと、それでどうかしたの?」
 できるだけそっけなく、さっきの醜態が無かったように振舞う。そんな僕の問いかけに数瞬の沈黙が流れる。
 僕はほんの少しだけキャロの様子を伺うべく視線をそちらへと向ける。
 キャロはなぜかとても寂しそうな表情を浮かべていたけど、すぐにいつもの笑顔へと戻った。
「あのね、ここらへんにはそんなに危険な生き物はいないから見張りはあまり熱心にやる必要は無いと思うの、それにエリオ君もちゃんと暖まらないと風邪ひいちゃうよ?」
 心配そうに語りかけてくるキャロ。もちろんこの場所が安全であることは当の昔に確認済みだ。
 こうして僕が見張りに立っているのは無駄な行為だってことも解っていた。
「でもほら、何があるかわからないからちゃんと警戒はしておかないと」
 それでも僕は建前の理由に縋ってこの場に居続けようとする。
 だけど、それは許されなかった。キャロは唐突に僕の腕を掴むとそのまま引きずるように洞窟の奥へと引き連れていく。
「え、ちょっとキャロ?」
 その力は自分に比べて遥かに弱く、振り払おうと思えばいつでも出来た。
 けど体が動かない。結果僕はキャロのなすがままに洞窟の奥へと引っ張り込まれた。
「そうやってエリオ君、無茶して倒れたことあるよね。そんなこともう許さないから、まずはしっかり身体を暖めて、何をするにしてもそれからじゃないと」
 力強く言葉を連ねるキャロ。そこには有無を言わせない妙な迫力が篭っていて僕は何かしらの反論を述べることも出来なかった。
 結局そのまま洞窟の中程まで引っ張り込まれる。大きな空洞をなしているその場所はキャロが設営したのだろう明々と燃える焚き火の光が満ちていた。
「はい、エリオ君はそこに座って。コートの方はもう乾いているけどアンダーが乾くまで着ちゃ駄目だからね」
 そう言いながら焚き火の近くに無理矢理座らされる僕。仕方なく僕はその指示に大人しく従った。
 その様子を見てキャロもようやく納得してくれたのか、ようやく僕の手を離し焚き火を挟んだ対面へと腰を落ち着ける。
 その間に僕はキャロからできるだけ距離をとるように体育座りで身体をコンパクトに折りたたみ、できるだけ隅っこの方に移動しようとするが、ここ数年で急激に伸びた手足は窮屈さをしきりに訴えていた。
 それでも必死になんとかしようと試みていると狭い洞窟に忍び笑いが漏れていた。
 見れば、キャロがこちらの様子を見て押し殺した笑いを浮かべている。
 なんとなく理不尽な思いを味わったので、抗議の意味もかねてキャロを少しだけ睨んでみる。
 その様子に気づいたのか、キャロも慌てたように首を振った。
「ご、ごめんねエリオ君。でもなんだかエリオ君が小さくなってるところを見るとおかしくって……」
 その顔はまだ笑っている。そんなキャロの様子に軽い憤りを覚えるが、それとは反対に心は先程までとはうって変わって驚くほど穏やかだった。
 気づけば自分もいつの間にか笑みが浮かんでいた。先程、自分はなぜ悩んでいたのかさえ忘れてしまっていた。
 そうして暫く、狭い洞窟の中には穏やかな笑い声だけが静かに響いた。
 だけど、その雰囲気もすぐに消え去る。
 ようやく笑いが収まったのか、キャロが息をつきながら濡れた髪をかきあげる。
 その姿を直視していた僕は、キャロに目を奪われる。
 キャロも自分と同じくマントと上着を脱いでおりアンダー一枚になっていた。
 彼女の華奢な肩が、張り付いたアンダーから伸びる身体のラインが、そしてなにより濡れた髪をかきあげ晒されたキャロの上気した頬を持つその表情が否応なしに僕の思考を削っていく。
 目を離すことが出来ない、まるで吸い込まれるように僕はじっとキャロを見詰めていた。
「エリオ君、どうかしたの?」
 その視線に気づいたキャロの問いかけに僕はようやく理性を取り戻した。
 首を捻って無理矢理に視線を外し、慌てたように掠れた声を紡ぐ。
「ご、ごめん……なんでもない」
 思わず謝ってしまう。それはまるで自分の罪を認めているようで僕はますます後悔の念に囚われていった。
 最近はずっとこんな調子だった。
 ふと気づけば、僕はキャロの姿を目で追っていた。
 いや、違う。自分自身を誤魔化したところでどうにもならない。
 僕は、キャロの身体をじっと見詰めていたのだ。
 それははじめ無意識での行動だった。自分でもなぜそんなことをしているのか理解することが出来なかった。
 だけど、成長するにつれてその原因を理解した僕は――――比喩でもなんでもなく死にたくなった。
 あろうことか、僕はキャロを、大事な友達を汚らわしい視線で見るようになっていたのだ。
 そして何よりも許せないのは、それを自覚しながら僕は今この瞬間もキャロをそういう視線で見ていることだ。
 つい先程、まったく同じ感情に襲われこの場から逃げ出した自分が居るというのに、また同じ事を繰り返している。
 自分のあまりの醜悪さに吐き気がしてくる。
 そして、そんな僕を見詰めるキャロの純粋無垢なその瞳が、今は何よりも恐ろしい。
 もし、自分の醜悪さに気づかれたのならばキャロは自分のことをどう思うだろうか?
 おぞましいと、汚らわしいと思われるのだろうか。
 それは当然だろう、僕はそう呼ばれるに足る行為を行っているのだから。
 だが、その結果。キャロと離れることになることだけはどうしようもなく嫌だった。
 それだけが、たまらなく恐ろしかった。
 自分勝手な物言いだということは理解している。事実自分はこうしてキャロを汚しているのに、それでも離れたくないだなんて理不尽にも程がある。
 もう自分の感情すら信じることは出来なかった。
 結果、僕はそれとなくキャロと距離をとろうと動くようになった。
 彼女が視界に入らなければ、自分の邪な考えも浮かばないと思ったからだ。
 気づけば洞窟の中は重苦しい沈黙が支配していた。
 自分が急に押し黙ってしまったためにキャロも口を噤んでしまったのだ。
 今はその沈黙が苦しくてたまらない。
 ほんの一刹那だって、ここにいることは出来なかった。
 そばにあったコートを掴み、立ち上がる。
 その動きにキャロは一瞬肩をすくませると驚いたようにこちらを見上げてくる。
「やっぱり、心配だからちょっとだけ周りを見てくるよ、すぐに帰ってくる」
 キャロのほうを出来るだけ見ないように気をつけながら、それだけを言ってその場から立ち去ろうとする。
 何がどう心配だからなのかは知らなかった。ただ雨が止むまでこの場から離れられればそれでよかった。
 だけど、その歩みは急に止められた。
 見れば手に取ったコートの裾をキャロが握り締めていた。
「えっと……キャロ?」
 戸惑いながら尋ねる。今は一分一秒でも早くこの場を離れたかった。
 一瞬、その衝動に任せてキャロを突き飛ばしどこかへ逃げようと本気で考えた。キャロに二度と会うことの無いどこか遠い場所へと。
 けれど……
「エリオくん、お話したいことがあるんだ、ちょっとだけでいいから……聞いてくれないかな」
 キャロの潤んだ瞳がこちらに向けられる。
 抗うことは出来なかった。僕はゆっくりと力を抜いて、その場に倒れるように崩れ落ちた。
 これから断罪が始まろうとしていた。



 ●



 焚き火の爆ぜるぱちぱちという音と雨が落ちる音だけが洞窟の中に響いていた。
 キャロは今僕の右手側に腰を落ち着け、僕と同じように焚き火にその視線を落としている。
 顔を上げた時、キャロの姿が見えない事だけが僕の心を落ち着かせてくれた。
「エリオ君、最近ずっと私のこと避けてたよね」
 雨音に掻き消えてしまいそうなぐらいの声音でキャロが呟いた。
 その問いかけに応えることは出来ない。
 否定することは出来なかった。自分は確かにここ最近あからさまにキャロを避けていた。そうしなければ自分の理性がもちそうになかったからだ。
 しかし、肯定することも出来ない。そうなれば僕はその理由を話さなくてはならない。それだけはどうしたって無理だった。
 だから、キャロの問いかけに返せたのは沈黙だけだった。
 そしてキャロは僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、そのまま話を進める。
「私ね、悲しかった」
 キャロの言葉が突き刺さる。理解はしていたが自分の行いによりキャロを傷つけていたという事実がより大きな後悔となって襲い掛かってくる。
「だからね、私……自分の部屋で一人で泣いて、でも悲しさは全然無くならなくて……それでいろんな人に相談してみたの」
 黙ってキャロの言葉を聴く、そうしてキャロが得た答えが何なのかは想像に難くない。
 いま自分の中にある衝動は、異常でもなんでもなく自分の年頃にはよく生まれる感情だということは理解していた。
 許せないのは、その対象がキャロであったことなのだ。それだけが楔のように自分の胸に打ち込まれていた。
 自分の今の状態がどういうものなのか、それなりの知識があるものならばすぐに看破されるだろう。
 そしてキャロはそれらを知った。知ってしまったのだ。
 脳裏に暗い絶望が圧し掛かる。
 いつかは露見することだったとはいえ、それでもずっとこのままでいたいという希望に縋り、生きていたのだ。
 その希望がいま、完膚なきまでに打ち砕かれたのだ。
「それでね、えっと……ミラさん達が教えてくれたの、男の子のその……色々なこと」
 恐ろしかった、何よりもいまキャロを見ることが恐ろしかった。
 彼女がいま、自分のことをどんな瞳で見つめているか知ることが恐ろしかった。
 彼女がもうあの美しい宝石のような純粋な瞳で自分を見てはくれないだろう事が恐ろしかった。
「私ねそれを聞いて……えっと、うれしかったんだ」
「…………え?」
 だから、キャロの言った言葉が理解できなくて僕は顔を上げていた。
 自分の右手側に座る彼女の横顔を覗き込んでしまっていた。
 そこには赤い炎に照らされながらも恥ずかしそうに紅潮した頬と決して曇ることの無いキャロの綺麗な瞳が輝いていた。
 暫く、その横顔を呆然と見詰める。
 感情は何一つ浮かばなかった、ただ魅入られるようにその横顔を見詰め続けていた。
「エリオ君が、私のこと女の子としてちゃんと見てくれてるんだって事が解って、自分でも驚くぐらい悲しいとかそういう気持ちがなくなったの」
 ゆっくりとキャロがこちらを振り向くと前かがみになってこちらへと身体を寄せてくる。その顔はまるで子供のような無邪気な笑みを浮かべていた。
「ねぇエリオ君。いま私のどんなところを見ている?」
 そう、尋ねられ我ながら情けないことに視線はやや下へ。前かがみになったことによって強調されたキャロの胸へと視線が落ちた。
 初めて会った時とは違う、女性として確かなカタチを伴ったそれはいま身体にフィットしたアンダー一枚によってのみその全貌を隠されてはいるが、そのシルエットだけは明快に見て取れることが出来た。
「エリオくんのえっち」
 窘められるように、それでも僅かな嫌悪感も含ませないキャロの呟きが漏れた。
 慌てて視線をあさっての方向に向ける。いま自分が何をやったのかわからなかった。ただ吸い寄せられるように視線がそこへと向けられていたことだけは解った。
「ご、ごめん!」
 キャロの顔を見ることも出来ないまま、叫んでいた。
 そんな僕の謝罪に対しキャロは忍び笑いを漏らしている。
 キャロが何を考えているのかわからなかった。だから僕は混乱した思考のまま何も出来ずにその場で硬直してしまっていた。
 だから、伸ばされたキャロの手の行き先も僕には把握することが出来なかった。
「謝らなくていいんだよ。それって普通のことなんだってミラさん達が言っていたから、好きな子にエッチな気持ちになっちゃうのって普通で、大事にしないといけない気持ちなんだって……それに、」
 耳元で囁かれる言葉に縛り付けられたかのように身体が動かない。
 そしてその間隙を突くようにキャロの白くて柔らかい手が僕の股間を優しく撫でた。
「ひあぁっあっ!?」
 全力でその場から飛び退った。何が起きたのか理解できなかった。自分はいつの間におかしくなってしまったのかと本気で思った。
 爆発せんばかりに膨れ上がる心臓の動悸、今起きた出来事を何とか論理的に整理しようと試みるが壊れた脳髄は白紙の文章しか生み出さない。
 ただ視線の先、キャロがその右手に舌を這わせて恥ずかしそうに、けれど楽しんでいるかのように微笑んでいる姿だけが脳裏に焼きついた。
「女の子だって、ちょっとはえっちなんだよ……」
 脳が負荷に耐え切ることが出来なかった。
 ゆっくりとまるで重力の楔にとらわれたかのように真横に倒れていく。そんな傾いていく世界の中でキャロが慌ててこちらを抱きとめようと駆け寄ってくる姿が年相応で、とても可愛らしく見えた。



 ●



 夢を見た。
 母親に抱かれて安らかに眠る夢だ。
 それは僕の中では既になくなった記憶だ。
 辛うじてあるのはフェイトさんに優しく抱きしめられた時の記憶だろうか。
 しかし、それとはまた別の安息を感じる。
 守られていることに安堵を覚えるのではなく、ずっと望んでいたもの手に入れられた充足感。
 離したくない、離れたくないと願うそんな心地よい夢だった。
 だから、目が覚めてそれが夢だとわかった時、それでもその安堵が無くならなかった事に僕は不思議な感覚を覚えた。
 夢というのは覚めれば消えてなくなる。だから後に残るのは充足感ではなく消失感だけなのだ。
 だから、不思議に思いながら自分の身体に掛けられたコートを持ち上げた時、目の前にキャロの姿が現れたことに対して僕は心臓が止まった。
 思ったとか、そんな比喩ではなく本当に止まった。
 なにしろ、キャロは僕の胸に一糸纏わぬまま抱きついていたからだ。
 叫び声もあがらない、ただ打ち揚げられ呼吸困難を起こす魚のようにパクパクと口だけが声にならない声を上げていた。
 どうすればいいのかわからなかった。
 生きていていいのか、わからなかった。
 とりあえず、今のこの状況だけは何とかしないといけなかった。
 目的が出来ると頭は幾分か冷静になってくれた。
 なんとかして気づかれないように絡みつくキャロの腕を外し、この場からいち早く逃げ出さねばならないと妙に回転の早くなった思考回路は応えた。
 まずは状況把握を優先する。
 まずキャロは生まれたままの姿で自分に抱きついているようだ。掛け布団がわりに掛けられたコートの所為で……いや、おかげで下半身は見えないが上半身は何一つ纏っていない。
 その時点でくらりと意識が途切れそうになったが、何とか気合で持ちこたえる。
 そのキャロの腕はこちらの脇の下を通るように背中に回され、がっちりと抱きしめられてしまっている。
 当面はこの腕を何とかしないとどうしようもなさそうだった。
 そして最後に今の自分の身に起こっていることを再確認する。
 自分は恐らく何も纏ってはいない。上半身のアンダーどころか全身をくまなく覆う柔らかい感触が素肌を刺激する感覚から下半身すら何も履いていないことを理解した。
 一気に難易度が上がった。下手に動けば自分の身にとんでもない事態が発生してしまう。
 いや、いまこうして微動だにしていない瞬間でさえ全力で精神を集中しなければどうにかなってしまいそうだ。
 頭の中で必死にこの前解けなかった魔力計算式を解読しながら、なんとかしてキャロの腕を解こうと動き始める。
 しかしキャロの指先は背中へと回されている、寝ている状態ではどうしようもない。
 できるだけゆっくりと上半身を起こさねばならなかったのだが、その為には腹筋の要領で下腹部に力を入れなければならない。
 それだけは、それだけは駄目だった。
 今下腹部に力を入れてしまうと全てが水泡に帰してしまうことだけは確かだった。
 ならば、残る手段は寝返る事。キャロを抱えたまま横に反転しその後どうにか脱出を試みるしかなかった。
 それを成し遂げた時の体勢がどう見てもキャロを押し倒しているようにしか見えないのが最大の問題だったが幸いにしてここには誰もいない。
 腕に力を込めてゆっくり、ゆっくりと横に動き始める。
 キャロはその動きに一瞬ぐずるような声を上げたが、腕は自分の身体に巻かれたまま。
 気づいていない。いけると思った。
 だが、ちょうど身体を横に向けたところで、
「……やぁん」
 キャロが甘い声とともにより強く自分の身体に抱きついてきた。
 柔らかい、とても自分と同じ人間の身体とは思えないその感触に全身の力が抜けて、その場に崩れそうになる。
 反射的にキャロをかばうような形でその場に落ちる。結果、一番初めとまったく変わらない姿勢に落ち着く形となった。
 だが、いまは作戦が失敗したことよりキャロのことが第一であった。
 怪我をしていないかどうかが一番重要だったが、その次に彼女が目を覚ましていないかどうかだ。
 見る。キャロはそれでも寝つきがいいのか自分への拘束を緩めることなくすぅすぅと可愛らしい寝息を立てている。
 安堵の溜息が知らずに漏れる。全身から弛緩した空気が流れた。
 落ち着いたところで、キャロに怪我がなかったかどうか確かめるためにもう一度キャロの顔を覗き込んだ。
 目が合った。
 上目遣いでこちらに視線を送るキャロの姿がそこにはあった。
 頭が真っ白になる中、口だけが勝手に動いていた。
「キャ、キャ、キャキャロ、い、い、いつから気づいていたの!?」
 自分でも情けないほど狼狽していることが解った。そんな僕の様子を見ながらキャロは可愛らしく首を傾げ、
「何時からって言っても……私眠ってないよ。ずっとエリオ君の寝顔を見ていたから」
 絶句。もうどう反応すればいいかが解らなかった。
「もうひとつのほうについては、さっき安心したように溜息をついた時から……かな?」
 だから、続けてキャロが恥ずかしそうに視線を外しながら呟いた言葉の意味を理解することも出来なかった。
 むしろもう何も考えたくは無かった。
 だから自然に聞いていた。
「えっと……なんのこと?」
「いえ、だからあの……エリオくんのが私のおなかをその……押してて」
 全身から血の気が引いた。むしろ血が一点に集中していた。
 死のうと思った。この世で一番辛く苦しい方法を選んで自ら死のうと思った。
「あ、あの大丈夫だよ。そういうのについても私ちゃんとお勉強したから、男の人ってそうなっちゃうんだよね」
 むしろ、それだけは学んでいてほしくなかった。
 キャロのフォローが今はどんな鋭利な刃よりも鋭く痛い、このまま死んだら目的は達成できるんじゃないかと思うほどに。
 とりあえずフェイトさんに謝ってから逝こう。ごめんなさい、僕は貴方が誇れる息子にはなれませんでした。と。
 そんな風に半ば現実逃避していると再びキャロが拘束を強くしてきた。
 ぎゅっと身体を押し付けられるそれは痛みはまったく無い。いやむしろ快感が全身を駆け抜けて痛覚よりよほどダメージの大きい効果を振りまいていく。
「キャ、キャロあのちょっとそれは……!?」
 意味の無い訴えをしながらキャロの方を見る。するとキャロは先程までのはにかんだ笑みを消し、どこか不満そうに頬を膨らましてどこかあさっての方向を向いている。
「あ、あのキャロ……さん?」
 怒っている。その小動物か何かを思わせるあまりにも愛くるしすぎる表情は滅多に見せないキャロの怒りの表情だった。
 自分が何かしてしまったのかと不安になり声をかける。いや、それを言うなら今のこの状況全てがそうなのだがそのうちのどれがキャロの逆鱗に触れたのかがわからない。
 するとキャロは不機嫌そうに呟いた。
「エリオくん。今他の女の人のこと考えてた」
 とんでもない事を言われた。いや、確かに一瞬フェイトさんの顔を思い浮かべはしたがどう考えても今の状況とは明らかに用途(?)が違う。
 混乱続きのなか、キャロは横を向いたまま拗ねたように呟く。
「こ、こんなに可愛い女の子が目の前にいるのに他の女の子のこと考えるなんて最低っ!」
 沈黙が流れた。なんと言っていいかわからなかった。それはどう考えてもキャロのキャラではなかった。
 本人もそれに気づいたのか慌てたように注釈に入る。
「ち、違うの。今のはアルフがそう言えばオスなんてイチコロだって相談した時に教えてもらって……」
 顔を真っ赤にしながら弁解を続けるキャロ。妙に冷静になった頭でそれならば納得がいくなと僕も思った。
「――って、アルフにも相談したの!? ミラさんとかタントさんだけじゃなくって!?」
 ちなみにミラさんとタントさんは自分と同じく自然保護隊に責を置く方々だ。キャロとは機動六課設立前からの付き合いでもう一組の両親といったところか、いまは一緒に活動しているためにそういった相談を持ちかけていても不思議ではなかったが……。
「え、うん? 他にも、えっとフェイトさんとかスバルさんとかティアさんとか……あっ、はやてさんがすごく詳しく色んな事を教えてくれたの。ちょっと意味が理解できないことが多かったんだけど……こすぷれ、とかなんとか?」
 自分の人生に今幕が降りたと理解した。
 ちょっと一時間ほど息を止めていたい気分だった。
「ところで参考までに聞きたいんだけど、今のこのシチュエーションは誰かに聞いたの?」
「あ、こ、これはエリオくんが濡れた服のまま寝ちゃったのもあるんだけど……アコースさんが『雪山で遭難してみた時はぜひやってみるといい』って……雪山じゃないけどちょっと自分なりにアレンジを……きゃ!」
 自分の言葉に恥ずかしそうに顔を伏せるキャロ。
 だが今はそんなことより、キャロとアコースさんの間にいつの間に繋がりが出来ていたのかが気になるところだった。
「あ、それははやてさんが聖王教会のカリムさん達にも相談してくれて、そこから広がったみたいで……その後も元機動六課の人たちや関係者の方々からたくさんのお葉書が……」
 大きく息を吐いてから息を吸うのを止めた。
 この苦しみの後に全てから解放されるかと思うと何の躊躇いも無かった。
「エリオくん? どうしたのっ顔色が紫だよ!?」
 意識が朦朧としてきて逆に気持ちよくなってきた。全てが消えうせていく感覚が今は何よりも待ち遠しかった。
 しかし、それも唐突に終わりを迎える。
 その両の頬がキャロの柔らかい手に挟まれたかと思うと同時に、何かが唇に触れる感触。
 そして次の瞬間、空気が一気に肺の中に充満し、意識が覚醒した。
 瞼を開く、目を閉じるキャロの顔があった。その距離は僅かにも離れることはなく、今この瞬間僕とキャロが繋がっていることがわかった。
 僕はキャロがゆっくりとその唇を離してくれるまで微動だにすることが出来なかった。
 呆然と、離れたキャロの顔を見る。
 彼女は少し複雑そうな、悲しそうな表情を浮かべていた。
「……はじめてのキスだったのに、全然ロマンチックじゃなかった……」
 肩を落として呟くその姿に、僕の全身に引き裂かれるような痛みが走った。
 それは恐らく死ぬことよりも痛くて、辛くて、悲しい痛みだった。
「ねぇ、エリオくん。私はね、エリオくんのことが大好きだよ」
 キャロの言葉は……どうしようもなく震えていた。
「だから、エリオくんが私のこと好きだって思えなくてもね、キスできたの嬉しかったよ」
 だから……。
「でもね、ほんの少しだけワガママ言っちゃうとね」
 僕は……
「ファーストキスはもうちょっとロマンチックな方がよかったかな」
 ただ、その震えを止めてあげたかった。
 キャロのあまりにも華奢なその身体を抱きしめて、できる限り優しくその唇を重ね合わせる。
 瞼は閉じていた、だからキャロがその時どんな表情を浮かべたのかはわからない。
 ただその手が再び僕の身体を優しく抱きとめてくれたのだけは解った。
 ゆっくりと、離れるのを惜しむようにその唇を離す。
 瞼を開けるとそこには目に涙をためたキャロがこちらを見上げている姿があった。
 掛けるべき言葉は既に決まっていた。
 もう、迷うことも、怯むこともしないと決めた。
「僕はキャロのことが大好きだ!」
 自分の素直な気持ちを、神聖なものも邪なものも全てを込めて伝えた。
「僕はキャロの風に揺れるその髪が好きで撫でたかった。柔らかそうなその唇が好きでいつもキスしたいと思っていた。その瞳が綺麗でいつも僕を見ていてほしかった。キャロのその体は何よりも美しくってずっと抱きしめたいと思っていた。まだ、もっといっぱいキャロを好きなところがあるんだ。キャロの全部が、その全てが僕は大好きなんだ!」
 自分の気持ちを全て伝えた。そうすることでようやく自分でも理解した。
 僕の中にあるキャロへのきもちは全て好きという感情から生まれたものだということを。
 どんなに神々しく神聖さに満ちた思いも、どんなに汚らしく邪な思いも、すべてキャロのことが好きだから生まれたものだった。
 ならば偽ることなど無い。恥じることなど無い。
 例え受け入れられなくても、それは自分という人間そのものの想いなのだから。
 そしてキャロはその思いに、ゆっくりと頷くことで応えてくれた。
「大丈夫、私はエリオ君の全てを受け入れてあげるよ」
 キャロはぎゅっと僕の身体を優しく包むように抱きしめてくれた。
「だって、私もエリオ君の全部が好きだから」
 エリオもその思いに応えるようにキャロを抱きしめ返す。
 その耳元で、僕は最後に言っておかねばならなかったことを彼女に伝えた。
「あのさ、さっきのキスのことなんだけど……」
「キス?」
「ロマンチックかどうか解らなかったけど、あれが僕からした初めてのキスだから……その本当のファーストキスってことで」
 自分でもどうかと思うセリフだった。
 けれど、キャロはそんな僕の言葉に本当に嬉しそうに微笑んで、僕にもう一度キスをした。
「まだダメだよ、ファーストキスじゃなくていいからもっともっとロマンチックなキスを私にちょうだい」







 目が覚める。
 ゆっくりと開いた瞼、しかし視界は暗闇に閉ざされておりどこに何があるのかもわからない。
 ただ自分の近くにキャロが居ないことだけはすぐにわかった。
「キャロ?」
 呼びかけるが返事は無い。急に背筋に寒気が走った。
 身支度もせずに上半身裸のまま洞窟の中を手探りで出口へと向かう。
 雨の音はいつの間にか止んでいた。
 代わりに周囲に満ちているのは清廉なほどの静寂だ。
 ゆっくりと、一歩づつ出口へと向かって歩を進める。
 そして、洞窟の入り口に彼女は居た。
 瞼を閉じて、世界に満ちる音を拾うかのように微動だにしない。
 僕は暫くその姿にぼんやりと見惚れていた。
 触れれば消えてしまいそうな、呼びかければ夢から覚めてしまうような希薄な空気が周囲に漂っている。
 だから、僕はただじっとその横顔を見詰め続けていた。
 彼女の瞼がゆっくりと開く、同時に深い森の続く地平線の彼方――そこから払暁の光が差し込んできた。
 世界に光が満ちる。
 まるでそこから命の息吹が生まれるかのように森の奥から動物達の囀りが響いてくる。
 世界の生まれる瞬間に、僕は立ち会っていた。
「おはよう、エリオくん」
 その光景に見惚れていたからか、いつの間にか彼女はこちらを向き、屈託の無い笑顔を浮かべていた。
「おはよう、キャロ」
 応える声はごく自然に出ていた。
 彼女の元へと歩を進め、その傍らに立つ。
「あのさ、キャロ」
 澄み切った一面の青空と、緑の大海のような森を眺めながら隣に居るはずのキャロに語りかける。
「手を握ってもいいかな?」
 彼女に触れることにはまだ、夢のように消えてしまうかもしれないという一抹の恐れがあった。
 だから、尋ねた。その手を握っても君は居なくならないのかと。
 彼女は返事を返すことなく、ただ応えてくれた。
 ゆっくりと僕の手を握る暖かい、確かな感触。
 僕はそれをしっかりと離さないように握り返した。
「大丈夫だよ」
 僕の中の不安を理解しているのか、彼女の言葉が僕を安堵させる。
「ゆっくり、歩いていこう。だって私たちは――――」



 ずっと、一緒なのだから。



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